トラピスト会士に抱かれています

年間第8主日(2022年C年)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2022年2月26日

記事のすべてのバージョン:

第一朗読:シラ書(シラ27・4-7);話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない
答唱詩編:(詩編92・2+3+4、13+14+15);たて琴をかなで、楽の音に合わせて、わたしは神をほめうたう。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・54-58);神は、イエス・キリストによってわたしたちに勝利を与えてくださる
アレルヤ唱:(フィリピ2・16a+15d);あなたがたはいのちのことばを保って、ともしびのように夜を照らしなさい。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ6・39-45);口は、心からあふれ出ることを語る

今日の福音は引き続きルカの平地の説教です。聖書を見てみると先週の福音とのつなぎの部分があり「イエスはまた、たとえを話された」という言葉があります。ですから、その前の教えを補足説明するところであることがわかります。先週の福音を見ると、イエスが弟子たちに「敵を愛しなさい」「人を裁くな」ということを教えました。それはイエスの弟子であるわたしたちに対する教えでもあります。今日の福音がその補足説明であれば「盲人が盲人の道案内をすることができようか」というのは「人を裁くな」という教えの別の視点からの説明だとわかります。「人を裁くな。そうすれば裁かれることがない。」先週の福音で言われたことばです。

「人を罪びとだと決めるな。」例えばひきこもりの人がいます。わたしたちはなぜひきこもっているのだろうと考えます。なぜ働かないのだろうと思います。もしかしたら働かない人に嫌悪感を抱くかもしれません。その人と距離を置くかもしれません。人を裁くな、とイエスは言います。ホームレスの人がいます。なぜホームレスなのだろうと思います。なぜ仕事をしないのかと思います。もしかしたらその人に嫌悪感を抱きます。その人と距離を置きます。人を裁くな、とイエスは言います。イエスが人を裁くなと言っている人というのはそういう人々のことです。

わたしが司祭になってすぐ、2016年のワールドユースデーに参加しました。そのころは「どうせ青年のお祭りだろう」と考えていました。うるさい青年と一緒に行くのは嫌だなと感じていました。これは人を裁いている心の状態です。今日の福音の盲人の話も自分の目の中の丸太に気づかない人の話も同じことです。イエスの弟子ならイエスの生き方を学び歩まなければならないのです。イエスにならい、イエスのようにならなければならないのです。目が見えない人というのは人を裁くという心を持っている人のことです。イエスの心をもたず人を裁く心を持っている状態です。わたしも人を裁く心を持った状態でした。

しかし、ワールドユースデーに参加して目が開けた状態になりました。世界中の青年と直接会話して一緒に行動することで青年に対する偏見が消えました。単なるお祭り騒ぎという考えも消えました。青年たちはそれぞれ一人の人間です。会話し交流をすることでその信仰を理解することができるのです。キリストのもとに一つに集う同じ信仰を持った人間なのです。そこにキリストがともにいるという感覚を持つことができたのです。ワールドユースデーはお祭り騒ぎではなく、イエスの受難と十字架、復活をしっかりと感じられるプログラムでした。それを体験し、わたしの目も見えるようになり丸太も取り除かれたように感じました。そこにいる人を遠く離れたところから見るだけでは理解できないのです。共に交わり、共に歩むことで分かることがあるのです。それによって裁く心というものがなくなり共感する心が生まれてくるのです。

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