年間第6主日(2022年C年)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2022年2月12日

記事のすべてのバージョン:

第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ17・5-8);呪われよ、人間に信頼する人は。祝福されよ、主に信頼する人は
答唱詩編:(詩編1・1ac+2、3、6);しあせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・12、16-20);キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい
アレルヤ唱:(ルカ6・23ab);喜びおどれ。天においてあなたがたの報いは大きい。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ6・17、20-26);貧しい人々は幸いである。富んでいるあなたがたは、不幸である

今日のルカによる福音の並行個所としてマタイによる福音にも同様の個所があります。それはマタイの『山上の説教』(マタイ5・1参照)です。ルカの場合は『平地の説教』(ルカ6・17参照)と言われています。ここでは「幸い」と「不幸」が出てきます。マタイもルカも4つずつです。ルカではそれぞれ最後の一つを要約する形で「幸い」と「不幸」が語られています。どちらの福音もイエスの説教の最初にあたりますから、新しいキリスト信者に向けてイエスが示す新しい生き方を示していると考えられます。

まず、ルカとマタイの初めの部分を見て見ましょう。

  • 貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6・20)
  • 心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ5・3)
    ここの部分はほとんど同じです。
  • 今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。(ルカ6・21)
  • 義に飢え乾く人は幸いである、その人たちは満たされる。(マタイ5・6)
    ルカはどちらも単純に「貧しい」「飢えている」と言っています。ルカによる単純さの方がより理解しやすいかもしれません。マタイでは「その人たちは」と第三者のことを言っていますが、ルカでは「あなたがたは」と目の前にいる群衆のことを言っていますので、この点でも親しみやすさが違うでしょう。

そしてルカ福音書の3つ目の幸いをわたしは司祭叙階カードの聖句としました。
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6・21b)
マタイ福音書で対応する個所は次の言葉です。
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5・4)
マタイによる福音ではなくルカによる福音の個所を叙階カードに選んだのは、「あなたがたは笑うようになる」というところが決め手でした。どちらも素晴らしい言葉ですが、悲しくても泣いていても、神がわたしたちを慰めるだけではなく、笑うようにしてくださるという希望を感じたからでした。わたしたちが自ら笑うようになるのです。神の国はあなたがたのものなのだから、神はわたしたちを救いに来てくださるのです。神がわたしたちを永遠の幸福に導いて、笑うようにしてくださるのです。イエスの福音がそこには満ちあふれています。現実にそういう人々を神は救ってくださるのです。

対して、不幸であると言う言葉は、神なしでも満たされている人々に幸いの道を選ぶようにという戒めの言葉であると言えます。「富んでいる」「満腹している」「笑っている」人々には変わる機会が与えられているのです。その人々は満たされている時は神から離れてもいいと考えているかもしれませんが、いつ満たされなくなる時が襲ってくるかしれないのです。その時に神に頼っても遅いのです。人生にはいつも迷いがあります。それは悪いことではありません。神から離れることも、神を思い出すことも、神に頼ることもあるでしょう。しかし、人生の終わりには最終的にどちらかを決めなければなりません。死はすべてを神にゆだねる瞬間であり、その人の地上での時間が終わる瞬間なので、その時に心に思っていることはもう変えられないのです。すべてがその瞬間に決定してしまうのです。その時に神なしでもいいと思っている人は、もう神に近づくことができないのです。神のもとで安らかに憩うためには普段から神の恵みに感謝して生きていくことが大切であるし、人生の終わりに神に心を向けることも大切なのです。今日の「幸い」と「不幸」はわたしたちの生き方を変えてくれる最初のイエスの問いかけなのです。

写真集

  カトリック札幌司教区 ブログ 佐藤謙一神父のブログ 年間第6主日(2022年C年)

我々の会話

© Copyright・ 日ごとの福音・一般社団法人 ・2017~2021