トラピスト会士に抱かれています

年間第5主日(2022年C年)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2022年2月5日

記事のすべてのバージョン:

第一朗読:イザヤの預言(イザヤ6・1-2a、3-8);わたしがここにおります。わたしを遣わしてください
答唱詩編:(詩編138・1+2ab、4+5+7d、8);主をたたえよう。主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・1-11、または15・3-8、11);わたしたちはこのように宣べ伝え、あなたがたはこのように信じた
アレルヤ唱:(マタイ4・19);わたしのあとに従いなさい。人を捕らえる漁師にしよう。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ5・1-11);彼らはすべてを捨ててイエスに従った

今日の福音はシモン・ペトロをはじめとする漁師たちがイエスのことばに従って漁をすることによって神の恵みに気づきイエスに従っていく物語です。最初の弟子たちの召命の物語がルカによって語られているのです。マタイやマルコにも同様の召命物語がありますが、イエスのことば「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」としかありません。しかし、ルカにはその前にイエスとシモン・ペトロとのやり取りが描かれています。「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」とイエスに言われて、シモンは信頼をもって「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。そしてイエスが行われた不思議な出来事によってシモン・ペトロがイエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ってからようやく「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とイエスは言われるのです。

「お言葉ですから」の『お言葉』という言葉をどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。それはマリアのもとへ天使ガブリエルが遣わされたときに告げられた言葉に対してマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という答えの中にあります。ギリシャ語の聖書の中では『言葉』という単語は使い分けられています。今日の福音の初めに「神の言葉」とありますがこの『言葉』と「お言葉」の『言葉』は違う意味合いがあります。「神の言葉」というのは救いをもたらす神の福音やイエスご自身を表すのに対し、「お言葉」というのは発せられた言葉という意味の他に語られた出来事全体や不思議な出来事を示すものです。マリアが天使ガブリエルの言葉に信頼したように、シモン・ペトロもイエスの言葉に信頼して「・・・何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えたのです。

網を降ろしてみると想像以上の大漁で仲間の船にも手伝ってもらって魚でいっぱいになって沈みそうになりました。この出来事を通してイエスの恵みの豊かさに驚くと同時に、自分がいかに小さく罪深い者なのかとの思いから、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエスの足元にひれ伏してシモンは言うのです。初め「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが・・・」の『先生』という呼びかけから『主よ』と変わっています。シモンは人間としての「先生」という呼び方から、不思議な力を感じた神である「主よ」と言っているのです。それによって「わたしから離れてください」と言います。当時、神を見た人はその聖性の前で滅びてしまうと考えられていましたのでそのように言ったのです。

イエスはシモンに「恐れることはない」と言われました。イエスが来られたのは罪人を滅ぼすためではなく、救うためなのです。罪人こそ救われるべきであり、神に立ち返り、神との交わりに加えられるべきなのです。「今から後、あなたがたは人間をとる漁師になる」とイエスは言われ、彼らはすべてを捨ててイエスに従うことになります。「人間をとる漁師」とは、人をイエスに導き永遠の命に招く者ということです。わたしたちも同じように「人間をとる漁師」としてイエスに招かれているのです。わたしたちは日々の生活の煩いのせいで、神とイエスと聖霊のことを見失ってしまうかもしれません。しかし、今一度神に立ち返り、イエスのことばに従って歩んで行き、聖霊の働きを感じることができるように祈っていかなければならないのです。

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