第二章 キリスト教における希望 1 希望をもって考える 2/3
苦しみを合理的に正当化しようとする試みがこれまでたびたびなされてきました。たとえば影と暗闇が明るいところをより目立たせるのに重要であるのとよく似た感じで、苦しみは人生にとって重要な意味をもっているというようなことが言われます。もしもわたしたちが人間の苦しみに対してこのような哀れで陳腐な、しかも表面的な答しか持ち合わせていなかったならば、背いたとしても十分な理由があったことでしょう。苦しんでいる子供や死の苦しみにあえいでいる子供、あるいは助けてあげられないのに助けを求めて泣き叫んでいる子供を一度でも目にしたことがある人なら誰でも、世の中のあらゆる美しさも被造物のあらゆる歓喜や輝きも、たったひとりの子供の苦しみでさえ正当化することができないということがはっきりわかることでしょう。しかしキリスト者であるわたしたちは、どんなことでも説明できる人とか、答えられないときにペラペラ口先だけの答をする人を心に留めるわけにはいきません。むしろわたしたちは神を把握していないと率直に認めるべきです。つまりわたしたちはなぜ神が苦しみを、しかもこれほど多くの無意味な苦しみをお作りになったのかわからないのです。またキリストは十字架上で死を迎えたとき、なぜ神を認めることさえできないくらい深い苦しみと涙でいっぱいだったのか、わたしたちにはわからないのです。神は人間の苦しみに対して答を出されません。神は人間の苦しみをご自分でになわれたのです。神はご自分のまわりにある苦しみの波がご自分の受肉した生命のまさにその奥底にまで押し寄せるようになさったのでした。
「イエズスは悲しみもだえ始められた。」とマタイは言っています(マタイ26・37)。マルコは「イエズスは深く恐れもだえ始められた。」(マルコ14・33)とさらに力をこめて言っています。一方ルカは「イエズスは苦しみもだえておられた。」(ルカ22・43)と言っています。ゲッセマネの園でイエズスは全身全霊を打ち込んで哀願されたので、「汗が血のしずくのようになって地にしたたり落ちた」(ルカ22・44)のでした。神のこのようなお姿やなさり方に直面すると、たとえそれが苦しみというものを正当化しないまでも、疑問を抱いている人はみな沈黙してしまいます。このように沈黙することができるということは、希望のうちになされる黙想の創造的な特徴のひとつなのです。もっともすばらしくて本当に助けになる言葉はたびたび苦しみに満ちた沈黙から生じるのです。人間の苦しみである孤独を味わいつくした人々を通して神はわたしたちに話しかけられます。かれらの苦しみが自分の天職となり使命となったからです。かれらは全ての苦しむ人々と霊的な絆で結ばれていると感じているのです。いつの日か、人里離れた牢獄の陰気な板の寝台にいる見知らぬ囚人の側に座って「希望を持ちなさい! あなたひとりなのではありませんよ。」と言えるように、神はかれらに人間の苦しみをなめさせられたのです。そのような人々こそ他人の苦しみを担う権利をすでに獲得しているのです。
ここで希望をもって考えるための第三の条件は、兄弟愛であるということがわかります。疑問を抱き問いかける際に沈黙してしまう人間は、表面的な体系など無益であると鋭敏に気づいているのです。何か永久不変で論理上妥当なものを案出しようとする人間の努力が望みのないものであるということがわかっているのです。ですからその人は評価したり非難したりしませんし、また世界の人々を敵味方という風に、つまり好き嫌いのカテゴリーで分類したりもしません。かれはただ抽象的な証明から知的に演繹することによって知っているだけでなく、個人的に体験することによって、キリストがすべての人のために苦しみを受けて死なれ、すべての人に希望を与えることをお望みになったということをよく知っているのです。またかれはすべての人がキリストの寛大な支配に従属し、キリストに属し、さらに奪うことのできないかれの所有物であるということもよく知っているのです。
希望をもっているキリスト者はひどく動揺しています。キリストは神の国を相続するための条件と人々の希望である神との直接の触れ合いについて述べられましたが、そのみことばが暗示している危険が現に存在しているためです。キリストは神ご自身については全然言及しておられません。ただわたしたちが衣食住を与え保護してあげたり、病気のときや刑務所にいるとき訪ねてあげた兄弟について言及しておられるだけです。この考えはヨハネにおいてきわめて徹底したかたちをとっています。わたしたちがお互いに愛し合うために神はわたしたちを愛してくださった、とかれは言っています。わたしたちがキリストをはっきりと知りそして愛するということにキリストは全然関心をもっておられないかのようです。隣人を愛するだけで十分なのです。自分が神を愛しているということを具体的に表すものとしては、現世においても来世においてもただ隣人だけしかないのです。人間はその本性からして自分の信仰を可能なものにするための条件として兄弟愛に頼っているのです。人間にとっても、またキリスト教的な考え方からも他の道はないのです。苦しんでいるときでさえ幸せの源(「あなた」と呼ばれる)神を実際に愛する以上に目的をもたない有限の愛(つまり被造物への献身)は本質的に神への愛、信仰、祈り、希望なのです。正直にしかも誠意をもって愛する人は誰でも、たとえまだ神のことを耳にしたことがなくても、本当の神は何であるかを意識してしかもじかに体験するのです。神は人間の有限な愛を聖別してくださいましたが、それは結局のところすべての人の生活から、またキリスト教的な生活や信仰や希望、そして秘跡や祈りや教会から、このような人間の有限な愛を取り除いては何も残らないからです。
追伸
L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)、吉田聖・吉田雅雄共訳、『希望に生きる(living in hope)』、エンデルレ書店、昭和48年、p.41-45