教皇ミサでの退堂行列

希望に生きる(living in hope)1

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2020年12月17日

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第一章 未来に向かって 1 生命の起源と目標

人間は未来に向かって生きています。人類の発達過程はまだ完成していません。生物学的にみても、精神的にみても、人間の進化は始まったばかりです。自然科学者たちは人間の進歩発展には予想もつかないほど長い時間がかかるであろうと言っています。古生物学者たちは、動物学上ふつうの大きさの種の生存年限はだいたい五千万年であると言っています。このことからだけでも、もし人間がその未来と妥協するつもりならば、今日どれほど大きな問題と戦わなければならないかがわかると思います。進化の先端に立ってその危険やそれが約束するものを推測できない未来へと進むことは、すばらしいことではありましょうが、同時に危険を伴うことでもあるのです。ところで新しい学問が生まれつつあります。それは「未来学」です。この未来学をキリスト教的精神で発展させること、これこそは現代のキリスト教思想家にとってもっとも大切な仕事のひとつなのです。

ところで、キリスト者の眼前には、ごく簡単に「天国」と呼ばれている「絶対未来」があります。今日キリスト者はおもに人知で想像可能な天国について聞きたがっています。残念乍ら神学の論文中でいちばんおもしろみがなく、また不完全なのはまさしくこの「天国」を扱った個所なのです。このことはたびたびそう認めざるを得ないところです。もしも天国について、すなわちわたしたちの真の未来についての説教を準備しなければならないことになれば、わたしならマルクス主義者エルンスト・ブロッホの『希望の原理』という本を開きます。そこには絶対未来を切望するのは、いったいわたしたちの中の何なのかが驚くほどくわしく分析してあるからです。これは確かにキリスト教思想家にとって恥ずかしいことです。何といっても天国の存在を、しかもただ抽象的に考えることはできない天国を、つまり毎日の生活と知識に密着していて四六時中体験できる天国を思想家としても立証すること、これをわたしたちのもっとも大切な仕事、もっともキリスト教的な仕事とすべきです。もしわたしたちが今日、わたしたちの本当に人間的な経験に基づいて天国について正直に語るなら、人々は注意を払うことでしょう。
 豊富な分析をしているエルンスト・ブロッホの希望の哲学を読むと、キリスト教思想家は思い知らされます。わたしたちキリスト者はすでにこの世に到来している天国についてどれほど少ししか語らず、しかもどれほど情熱を込めずに語っているかということを思い知らされるのです。ここにこそ良心の糾明をする重大な理由があるのです。と言うのもわたしたちはすべての人のうちで「希望の原理」のしるしを、言わばわたしたちの体そのものの中に持っているからです。それでもなお主として人類の嘆かわしい状態について語るということがすっかり流行となっています。そうすることによって文学上いくらか名声を博した人たちもあります。しかし、希望を持ち、あくまでも楽観主義に徹し、幸福を好むことは、人生にとってなくてはならない大切なことです。もしもキリスト者が神の証を、しかも神の偉大さの証をするつもりなら、ただひとつだけどうしても今しなければならないことがあります。それは「この世界には今もなお喜びと幸福と希望があり、人生はよいもので生きるに値するものである」ということを、人々に証明することです。

ところで生命や一般に実在はどこから来るのでしょう。それは神からなのです。わたしの起源は神のうちにあります。これはどういう意味なのでしょうか。わたしは今のこのわたしを形作っているすべてを含めて、神にかたどって作られたものなのです。わたしは神のお考えによるもののひとつとして生きているのです。被造物であるという事実は、わたしたちが自らのうちに神のいのちを抱いているのであり、またわたしたちの実際の身体・精神構造によって永遠の光栄のために予定されたものであるということを意味しています。生命は天国を目的として神から造られたものです。ですから人間という存在はその完成である天国を念頭において理解されなければなりません。その完成以前に起こることがらはただ「人間が誕生するようになる」ということにすぎないのです。人間が天国にはいる時、その時こそこの世界は存在し始めるのです。わたしたちはまだ本当の意味では生きていないのです。完全な意味ではまだ生きていないのです。わたしたちの生命は天国をその目標として本当に「生きるものとなること」の途上にあるのです。純粋な生命はまだ存在していないのです。その本当の姿はこれからやってくるのです。本当に人間とは何かということは、これから先の問題なのです。

現代思想発展のもっとも顕著な事実のひとつは、人間がこの世界と協同一致していることにますます気づきつつあるということです。人間はもはやこの世界を本当に静止したものとはみなさず、むしろ進化の過程の調和したものとみなしています。この世界は銀河や太陽系や惑星を有する秩序ある宇宙から成り、そして原始的なものから次第に複雑な生命体の生産へと、つまりより高度な意識形態へと暗中模索的に進歩していくことから成りたっているのです。人間はこの進化によって生まれたものであり、この世界の開花したものです。この世界の内面性は、言ってみれば人間に集約されているのです。宇宙は生命の方向へと原始状態から発展して行きます。生命は自らを霊へと変容することによって人間へと進化します。霊は神を知るようになることによってまた愛のうちに神に自らを献げることによって生命を手に入れるのです。神と人間との一致は宇宙を永遠の完成へと引き寄せるのです。

この完成は、すべてのもののうちに最後には神が見えるものとなる宇宙です。ですからこの説明によれば宇宙は単一の進化の過程ということになります。神は、十億年以上にわたる進化発展を通じて自らを神へと高める力を世界に賦与することによって、世界を絶えず創造されているのです。世界創造の歴史はだいたいつぎのようです。初めであり同時に完成である神の創造の一行為において空間は言わば創造を自ら発展させるために挿入され、そしてこの空間においての神の力と十数億年以上にわたって進化する過程によって、宇宙は人間のうちに最高頂に達するのです。そしてその時人間を通じて宇宙は絶対未来、すなわち天国へとはいるのです。

コロサイへの手紙ではキリストについてつぎのように記されています。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも……、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1・16)。それゆえキリストは絶対的な成果でありまた目標なのです。宇宙の進化の運動はキリストに向けられています。すなわちキリストは「生成のプロセス」にまだおられるということです。キリスト教の教えのもっとも深遠な洞察のひとつがここに示されています。キリストは確かにわたしたちのもとにしばらくおいでになりました。しかしただちに数百万年続くかも知れない不思議な未来へと姿を隠してしまわれたのです。キリストは時の終りに至るまで「キリストになる」という生成のプロセスにおられるのです。ですからキリスト者とは、何か全く異なるものへ、すなわち凌駕できない未来へとその全生命が発展しつつある人間のことです。もしも世界が存在し、そしてまた憧れと熱望を抱く人間が存在するならば、天国は存在するに違いありません。なぜなら人間は自分が可能性があるもの、しかもこのうえなく可能性があるものと思わずには存在しえないからです。

したがってキリスト教的な歴史概念は「喜びのメッセージ」なのです。この世界の運命はもうすでに決定されているのです。しかし人間のそんな探求も無駄にはなりません。生命のあるところに、またどんなに小さくても愛の焔があるところには、究極的な創造である天国がすでに存在し始めているのです。このような世界では何も絶望したり臆病になったりする理由はないのです。神がご覧になりたい人間、それは喜びにあふれ、新鮮味があり、活気に満ちた陽気な人です。(意気消沈したり、しょげかえっている人ではありません。)これは、基本的にはキリスト者が、自分は神に造られたという事実について考え、そして自分の未来を見ていくべきであるという心構えによるのです。キリスト者は、陰気で憂うつな考えを自分の心から払いのけるべきです。そういう暗い考えはどんなことにも何の役にもたちません。そういう考えは本当の要点を捕えていないのです。むしろキリスト者の生活はつぎのような態度を表わすべきものであり、また事実それに基づくべきものです。すなわち、それは「生命はわたしたちのうちでなお発展しているということ、そして宇宙もまた救いのうちに含まれており、キリストのうちに完成を迎えるということ、さらにわたしたちのために神は永遠の喜びを準備してくださっている」という態度のことです。

ここで最後にもうひとつ考えてみることもおそらく時宜を得たことであろうと思われます。目標、すなわち究極の完成とは神と分かち合うということです。しかしいかなる被造物といえども、神の豊かさを受け、神の無限の豊かさを汲み尽くすことはできません。わたしの限られた存在では、神と完全に一致することは到底不可能なことです。ですから各人の完成はより偉大な完成の始まりでもあるわけです。天国は本質からして無限のダイナミズムとして理解しなければなりません。完成は、わたしたちの魂を広げ、今のわたしたち以上のものにします。こうしてわたしたちは無限なるもの(神)によってさらに満たされることができるのです。わたしたちは永久に神を捜し求めているのです。教父のひとりアウグスティヌスは、「わたしたちはこの世に生きている限り、神を見つけ出そうとして神を捜し求めている」と巧みに述べています。わたしたちは永遠の幸福、すなわち天国に神を見つけ出した後でも神を捜し求めるのです。わたしたちが捜し求め、そして見つけ出すように神は身を隠しておられるのです。見つけ出したあとでも捜し求めるように神は測り難い無限な方なのです。したがって人間の永遠性というのは、神に向かってますます深く没入することなのです。

静止したものはすべて天国において果てしなく広がる無限のダイナミズムへと引き込まれ変わるのです。至福とは永遠に変容することです。天国では固定されたり硬直化したものは何ひとつありません。このことこそは、終りのない、しかも不滅の生命力の条件なのです。

このような状態が生じ、憧れもすべて成就されるとき、創造という最高の冒険も終わるのです。心の望みがすべて満たされるとともに、本当の創造も始まることでしょう。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た……。(神は)彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない……。」(黙21・1、4)と聖書にあります。

キリスト者であるということ、それはこうした希望に生きるということであり、人生のいかなる境遇にあっても、たとえもっとも困難なことに直面しても、この希望によって証をするということなのです。

追伸

L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)、吉田聖・吉田雅雄共訳、『希望に生きる(living in hope)』、エンデルレ書店、昭和48年、p.1-8

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