神学校入学式ミサ

四旬節第4主日(2022年C年)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2022年4月2日

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第一朗読:ヨシュア記(ヨシュア5・9a、10-12);約束の地に着いた神の民が過越祭を祝う
答唱詩編:(詩編34・2+3、4+5、7+8);主を仰ぎ見て光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント5・17-21);神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させられた
詠唱:(ルカ15・18);父のもとに帰って言おう。「わたしは神にもあなたにも罪を犯しました。」
福音朗読:ルカによる福音(ルカ15・1-3、11-32);お前のあの弟は死んでいたのに生き返った

イエスの言葉や行動に興味をもった人々はたくさんいたと思います。その中にはファリサイ派の人々や律法学者もいたでしょう。興味を持つことは重要なことです。わたしたちも自分の興味のあることは気になるものです。ですからイエス様が話されたことの中に興味のあることがあれば気にかかるものです。今日の福音では皆さんがよくご存知の箇所が読まれました。父から受け取れる財産の半分を金に換え家を出ていった弟が、放蕩の限りを尽くしたあとに、回心して父のもとに帰ってくるという物語です。

このたとえを話されたのは、ファリサイ派の人々や律法学者がイエスに反発して、イエスが「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言いだしたからです。彼らはイエスが徴税人や罪人とともに食事をしていることを見過ごすことができなかったのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはある面では立派な人たちかもしれません。旧約聖書に書かれている通り、神からの言いつけを必死で守ろうと努力していました。しかし、いくら頑張っても完全に律法を守れる人などいないのです。彼らの悪いところは、自分たちは律法をきちんと守っているけれども、一般の人たちはいいかげんな生活をしていると判断して軽蔑していたことです。では、父なる神はどのように判断しているのでしょうか。それはイエスのたとえの中で語られています。

父である神は人が失敗したことやできなかったことを取り上げてくどくど説教したりしません。むしろ、そのような人がどういう態度をとるかに興味を示します。弟は確かに父の財産を使い果たして悪いことをしてしまいました。しかし、すべてをなくしてしまったときに我に返って初めて父のありがたさに気づきました。ただ何となく生活していたのでは気付かなかったことを、自分が失敗したことによって気づかされたのです。この弟の姿は、わたしたちの姿と一致します。つまり、日々の暮らしの中でテレビを見たり、趣味をしたり、食べ物や飲み物を楽しんだりして、神が与えてくださったこの世の中を当然のごとく浪費している姿です。そのような生活をしていると次第に自分がむなしくなっていきます。たとえどのような動機であっても「我に返って」神に立ち帰ることが大事なのです。この弟は今の状況から抜け出したいと考えたのが、たとえ自分の今までの生活を反省していなかったからだとしても、父のもとに帰るという決心をしたということが重要なことなのです。わたしたちが罪の赦しを受けようとするとき、恥ずかしさや怒られる恐れから決してためらわなくていいのです。父である神は立ち帰る者を、説教したり、叱責したりはしないからです。父は息子の悲惨な行動や状態を批判することなく、ただ帰って来た者を喜びのうちに大歓迎するのです。

ところで兄の姿はわたしたちにどう映るでしょうか。この兄の姿もわたしたちの姿と重なるところがあると思いませんか。自分はいつもまじめに働いてきて、親にも尽くしてきたのに、どこに行っていたかもわからない弟が帰ってきたからといって、父親が大歓迎することに嫉妬を覚えるのももっともだと思うかもしれません。この話を聞いて何か不公平に感じるならば、わたしたちはここに描かれている兄と同じように判断しているのです。その判断は父である神の判断とは異なります。わたしたちは父である神のように、なかなか他人の回心を見て、あるいは成長を見て喜ぶことができません。しかし、イエスと同じように他人が悲しんでいるときに共に悲しみ、他人が苦しんでいるときにともに苦しみ、他人が喜んでいるときにともに喜ぶことが大切なことです。わたしたち自身もよろこんで受け入れてくださる神に立ち帰ることができるように願いましょう。そして、わたしたちも父である神のように立ち帰る者を喜んで受け入れることができるよう願ってまいりましょう。

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