トラピスト会士に抱かれています

四旬節第3主日(2022年C年)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2022年3月19日

記事のすべてのバージョン:

第一朗読:出エジプト記(出エジプト3・1-8a、13-15);「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされた
答唱詩編:(詩編103・3+4、6+7、8+13);心をつくして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・1-6、10-12);荒れ野での民とモーセとの出来事が書き伝えられているのは、わたしたちに警告するためである
詠唱:(マタイ4・17);「神に立ち戻りなさい。神の国は来ている」と主は仰せになる。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ13・1-9);あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる

今日の福音は「回心」がテーマになっています。過越祭にピラトがガリラヤ人を殺害した事件がおき、血が流れたことを指して、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言っているのでしょう。彼らがこの「災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったから」と思っている人がいました。「シロアムの塔が倒れて死んでしまった者がいたのは、エルサレムに住んでいたどの人々よりも、彼らが罪深い者だった」からなのだと思っている人がいました。当時の罪の理解は不幸な出来事は罪の結果であると考えられていたのです。思い皮膚病にかかることも、目が見えなくなることも、足が萎えて立てなくなることも、中風で寝たきりになることもすべて罪の結果と考えられていたのです。そのような不幸な出来事に巻き込まれなかった者こそが罪びとではないと考えられていたのです。

イエスはそうではないと言います。「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。イエスが戒めるのは、人と比べて相対的に自分は不幸ではないので罪びとではないと思っていることです。悲惨な出来事は罪の結果ではなく、人を裁くための材料でもありません。それはわたしたちへの呼びかけであり、神への立ち返りの機会となるものなのです。

イエスは次のたとえを話されます。実のならないいちじくの木のたとえです。現代の経済活動からすれば、このような実のならない木はすぐに切り倒されるでしょう。しかし、主人は3年も待ちました。それでもすごいのに、この園丁は来年実がなるかもしれませんと言っています。この園丁は何がしたいのかと思うことでしょう。しかし、神はいつまでもわたしたちが回心して神に立ち返ることを待っているのです。それにわたしたちがいつ応えるのかをずっと待っているのです。神はそういうお方です。人の一生は短いと言いますが、それでも平均寿命で80年は生きます。例えば、80年の間生まれてからずっとイエスを知らず、神を知らず過ごしている人が死の直前にイエスを知り、神に立ち返ることがあります。神は3年待つだけではないのです。80年も待って、そして神を知り、イエスを知り、洗礼を受けてなくなっていく方がたくさんいます。神のいつくしみがそこに現れているのです。

人の一生のうち、神に立ち返る方が何人いるか分かりません。神に立ち返ったことを知らないまま自分のほうが先に亡くなることもあります。そのあとでその人が神を知り洗礼を受けることもあるのです。神の計らいは不思議です。自分の物差しですべてを測るのではなく神の忍耐深さに信頼するべきです。神はわたしたちが闇にとどまることは望みません。闇は滅びしかありません。闇から逃れて回心し神に立ち返ることを望んでおられます。神は忍耐深く、あられみ深く、いつくしみ深くわたしたちの悔い改めを待っておられるのです。

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