教皇ミサでの退堂行列

四旬節第1主日(2022年C年)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2022年3月5日

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第一朗読:申命記(申命記26・4-10);選ばれた民の信仰告白
答唱詩編:(詩編91・2+4ab、11+12b+10、14+15;主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ10・8-13);キリストを信じる者の信仰告白
詠唱:(マタイ4・4b);人はパンによるだけではなく、神のことばによって生きている。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・1-13);イエスは荒れ野の中を”霊”によって引き回され、誘惑を受けられた

四旬節に入り最初の主日の福音は、イエスが四十日間荒れ野で悪魔の誘惑を受けるという場面です。この四十日間というのはノアの洪水の物語で四十日四十夜雨が降り続きたことに始まり、出エジプトでは四十年の荒れ野の旅があったことに関連しています。それらのことから聖書の世界では、四十(40)という数字は試練や苦難を示していることがわかります。それでこの四旬節の四十日間をわたしたちは自分の罪を悔い改めて神に立ち返る期間としているわけです。

今日の福音の悪魔の誘惑はわたしたちの陥りやすい罪を示していると思います。「この石にパンになるように命じたらどうだ。」なぜこの世には飢えに苦しんでいる人がいるのに神は何もしてくれないのかと思うことがあります。困っている人がいるのになぜ神は助けてくれないのかと思うことがあります。悪魔の言葉はわたしたちが第三者的な視点で物事を見るときに陥りやすい罪と言えます。まず自分に何ができるのかを考えるのではなく、神が何をできるのか(言い換えれば他人が何をできるのか)に頼ってしまいがちです。悪魔の言葉に対して「人はパンだけで生きるものではない」とイエスは言っています。神頼みではなく、他人任せでもなく、自分で考えて行動する勇気が必要なのです。

次に「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。・・・もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と誘惑します。悪魔の権力によって、相手を屈服させて支配する誘惑です。自分の考えていること行っていることは正義と決めてしまって、相手を相対的に不正義だと決めつけることです。相手がどうなってもいいのだという考えです。あなたの考えは間違っている、わたしの言う通りにしなさいと言っているのです。これは正しいか正しくないかということではなく、相手のことを考えずに行動することが間違っているのです。そこでイエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言っています。神こそすべての正義なのであって、他人との比較で自分が正しいということではないのです。

最後に「飛び降りたらどうだ。」と誘惑します。自分たちは何もしなくても神が何とかしてくださるという考えです。神に信頼しているだけでいいのだ。神が何とかしてくださるはずだという考えです。現実に目を向けず何もせず傍観しているだけという姿勢です。「あなたの神である主を試してはならない」とイエスは言っています。神は何もしないと言って神から離れていないでしょうか、と問われています。

今日の福音では、以上述べてきた誘惑に陥ることを戒めています。自分のために求め願うだけでは、神と隣人との親しい交わりを失ってしまうのです。自分が陥りやすい罪に気付くことが大事なことです。四旬節にあたって悔い改めて神に立ち返ることができるよう願い求めましょう。

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