*主任司祭 佐藤謙一神父の言葉*

小樽広報部 により

2022年4月30日

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~広報誌「ぶどうの木 5月号」巻頭言より

「1年働いてから司祭になったこと」

※2016年に司祭叙階された後に司祭になって感じたことを書いた文章を抜粋して紹介します。
わたくしは会社勤務をしてから司祭召命を感じて司祭になる道を選びました。会社勤めはすべて合わせると15年程度です。この文章が載るころで49歳(2016年当時)ですから、司祭召命も他の人と比べても遅いほうだと思います。昔は司祭召命を子どものころ感じて小神学校からストレートで司祭になる人がほとんどでした。今は逆に社会で働いているときに召命を感じる人が多いようです。世間を知らないで司祭になるより、社会経験をしてから司祭になったほうが信者の気持ちが分かるのではないかという人もおりますが、必ずしもそうではないとわたしは感じています。やはり人それぞれで、ストレートに司祭になった人でも人の気持ちの分かる素晴らしい司祭もいますし、社会経験があっても自分流の付き合い方しかできない司祭もおります。
 わたしが新卒で会社に入社したのは1992年のバブル崩壊直後でした。就職活動をしていたころはまだバブル期でしたから大学卒であっても企業から引く手あまたでした。現在の若者に比べて申し訳ないくらい楽な就職活動でした。会社は技術系の会社で当時もてはやされた「産業の米」と言われた半導体を製造する会社です。入社直前にバブルが崩壊したわけですが、不動産とはほぼ無関係の会社でしたので影響を受けなかったわけです。
ところで、企業はすべて2001年3月期から始まった新しい会計制度によって退職給付金を計上しなければならなくなりました。それは会計上負債となって企業に重くのしかかるようにな
りました。その負債を計上しなくて済むためには会計年度が終わる前に退職金を計上しなければならない人が少なくなればいいわけです。そこで会社は「希望退職」を募りました。
 「希望退職」では2002年1月31日時点で35歳以上の方が対象となりました。そこまで引き下げないと会社経営が立ち行かない事態に陥ったのです。1966年11月13日生まれのわたしはぎりぎり対象に入りました。希望退職とはいっても事実上中高年層の肩たたきが実態です。もちろん表立ってすることはありませんでしたが、多くの人が役員との直接面接を受けました。わたしはこの会社で10年近く働きましたが「抗議」のため希望退職を申し込みました。わたし自身は役員との面接をすることはありませんでした。半導体の回路を設計する仕事をしていましたから会社としては辞めてほしくないわけです。やめてほしいのは製造現場にいる人々だったと思います。どちらかというと単純労働を行う部門の人員を減らすほうが企業としてはダメージが少ないのです。なぜならもし製造量が増えたとしても、当時増えてきた派遣社員や契約社員を入れて単純労働を教えればいいわけです。わたしはむしろ直属の上司から引き留めのための面接を何回も受けました。しかしわたしの考えが変わることはなく退職しました。
(6月号へ続く)

2022.3.20  四旬節第3主日説教

今日の福音は「回心」がテーマになっています。過越祭にピラトがガリラヤ人を殺害した事件がおき、血が流れたことを指して、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言っているのでしょう。彼らがこの「災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったから」と思っている人がいました。「シロアムの塔が倒れて死んでしまった者がいたのは、エルサレムに住んでいたどの人々よりも、彼らが罪深い者だった」からなのだと思っている人がいました。当時の罪の理解は不幸な出来事は罪の結果であると考えられていたのです。思い皮膚病にかかることも、目が見えなくなることも、足が萎えて立てなくなることも、中風で寝たきりになることもすべて罪の結果と考えられていたのです。そのような不幸な出来事に巻き込まれなかった者こそが罪びとではないと考えられていたのです。

イエスはそうではないと言います。「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。イエスが戒めるのは、人と比べて相対的に自分は不幸ではないので罪びとではないと思っていることです。悲惨な出来事は罪の結果ではなく、人を裁くための材料でもありません。それはわたしたちへの呼びかけであり、神への立ち返りの機会となるものなのです。

イエスは次のたとえを話されます。実のならないいちじくの木のたとえです。現代の経済活動からすれば、このような実のならない木はすぐに切り倒されるでしょう。しかし、主人は3年も待ちました。それでもすごいのに、この園丁は来年実がなるかもしれませんと言っています。この園丁は何がしたいのかと思うことでしょう。しかし、神はいつまでもわたしたちが回心して神に立ち返ることを待っているのです。それにわたしたちがいつ応えるのかをずっと待っているのです。神はそういうお方です。人の一生は短いと言いますが、それでも平均寿命で80年は生きます。例えば、80年の間生まれてからずっとイエスを知らず、神を知らず過ごしている人が死の直前にイエスを知り、神に立ち返ることがあります。神は3年待つだけではないのです。80年も待って、そして神を知り、イエスを知り、洗礼を受けてなくなっていく方がたくさんいます。神のいつくしみがそこに現れているのです。

人の一生のうち、神に立ち返る方が何人いるか分かりません。神に立ち返ったことを知らないまま自分のほうが先に亡くなることもあります。そのあとでその人が神を知り洗礼を受けることもあるのです。神の計らいは不思議です。自分の物差しですべてを測るのではなく神の忍耐深さに信頼するべきです。神はわたしたちが闇にとどまることは望みません。闇は滅びしかありません。闇から逃れて回心し神に立ち返ることを望んでおられます。神は忍耐深く、あられみ深く、いつくしみ深くわたしたちの悔い改めを待っておられるのです。

2022.3.13  四旬節第2主日説教

今日の福音ではイエスの変容が読まれました。モーセとエリヤとイエスが語り合っているときでした。モーセは律法を、エリヤは預言者を表しています。この二人は旧約聖書で約束されているメシアがイエスであることを証明するために現れます。この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエスの栄光の姿が表された」のではなく、「イエスが受難と死をとおって受けることになる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。主の受難の40日前に示されたこの主の変容がわたしたちの信仰の支えとなります。なぜなら、永遠のいのちへの復活があるということを示しているからです。

8月6日に主の変容という祝日があります。この祝日は9月14日に十字架称賛という祝日があって、その40日前にあたります。9月13日がエルサレムの復活聖堂の献堂記念日にあたり、その翌日にキリストの十字架を礼拝する習慣があったのでローマにも広がっていきました。主の受難では十字架を礼拝しますが、四旬節に祝った「主の変容」を十字架礼拝の40日前に年間でも思い起こして祝っているのです。

今日の主の変容はイエスが宣教した神の国には栄光という特徴があることを示しています。それと同時に、弟子たちに十字架の試練に備えて、彼らを励まし力づけるために示されたのです。主の変容と十字架というのは切り離すことができない出来事なのです。なぜなら神の栄光というものは、単に神には力があり光り輝くというだけでなく、自分をささげる愛、それも死さえも受け入れる愛を通して来るからです。この栄光の二つの側面を学ぶようキリストは求めておられるのです。ミサや祈りの中でわたしたちがイエスのことばを聞き、イエスを礼拝するたびにイエスご自身が栄光を受けられます。わたしたちが自ら踏み出して自分を犠牲にして誰かを助けるたびに、またイエスは栄光を受けるのです。祈りの中でイエスは栄光を受け、ゆるしの中でまたイエスは栄光を受けるのです。主の変容による栄光と十字架による栄光を一対のものとして受け止めましょう。

第一朗読では主なる神がアブラムを外に連れ出し、星空を仰いで、星の数ほどの子孫を与えると言われアブラムはそれを信じました。神はアブラムとの間に契約を結び、神の栄光をあらわされました。また、第二朗読でパウロは、イエスがあらわされた変容の姿をわたしたちの卑しい体にもそれと同じ形にしてくださると言っています。イエスの栄光の姿は十字架の受難をとおしてわたしたちが救いに入る道でもあるのです。四旬節の期間中、主の栄光を仰ぎ見て、断食、祈り、施しをとおして、神に立ち返る恵みが注がれるよう祈りましょう。

2022.3.6  四旬節第1主日説教

四旬節に入り最初の主日の福音は、イエスが四十日間荒れ野で悪魔の誘惑を受けるという場面です。この四十日間というのはノアの洪水の物語で四十日四十夜雨が降り続きたことに始まり、出エジプトでは四十年の荒れ野の旅があったことに関連しています。それらのことから聖書の世界では、四十(40)という数字は試練や苦難を示していることがわかります。それでこの四旬節の四十日間をわたしたちは自分の罪を悔い改めて神に立ち返る期間としているわけです。

今日の福音の悪魔の誘惑はわたしたちの陥りやすい罪を示していると思います。「この石にパンになるように命じたらどうだ。」なぜこの世には飢えに苦しんでいる人がいるのに神は何もしてくれないのかと思うことがあります。困っている人がいるのになぜ神は助けてくれないのかと思うことがあります。悪魔の言葉はわたしたちが第三者的な視点で物事を見るときに陥りやすい罪と言えます。まず自分に何ができるのかを考えるのではなく、神が何をできるのか(言い換えれば他人が何をできるのか)に頼ってしまいがちです。悪魔の言葉に対して「人はパンだけで生きるものではない」とイエスは言っています。神頼みではなく、他人任せでもなく、自分で考えて行動する勇気が必要なのです。

次に「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。・・・もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と誘惑します。悪魔の権力によって、相手を屈服させて支配する誘惑です。自分の考えていること行っていることは正義と決めてしまって、相手を相対的に不正義だと決めつけることです。相手がどうなってもいいのだという考えです。あなたの考えは間違っている、わたしの言う通りにしなさいと言っているのです。これは正しいか正しくないかということではなく、相手のことを考えずに行動することが間違っているのです。そこでイエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言っています。神こそすべての正義なのであって、他人との比較で自分が正しいということではないのです。

最後に「飛び降りたらどうだ。」と誘惑します。自分たちは何もしなくても神が何とかしてくださるという考えです。神に信頼しているだけでいいのだ。神が何とかしてくださるはずだという考えです。現実に目を向けず何もせず傍観しているだけという姿勢です。「あなたの神である主を試してはならない」とイエスは言っています。神は何もしないと言って神から離れていないでしょうか、と問われています。

今日の福音では、以上述べてきた誘惑に陥ることを戒めています。自分のために求め願うだけでは、神と隣人との親しい交わりを失ってしまうのです。自分が陥りやすい罪に気付くことが大事なことです。四旬節にあたって悔い改めて神に立ち返ることができるよう願い求めましょう。

~広報誌「ぶどうの木 3月号」巻頭言より

「神父がいなくても」

 2022年2月1日に、司祭の人事異動が発表されました。札幌地区は7人の主任司祭が6人に、函館地区は2人の主任司祭が1人に(当別教会除く)、旭川地区は、6人の主任司祭が5人になりました。小樽小教区に関連するところでは、わたしが小樽・倶知安・手稲・円山の4つの小教区を担当することになり、3つの担当だったところに円山教会が加わりました。小樽教会でどのように司牧していくかは4月号で示したいと思います。
 先月のぶどうの木の巻頭言で勝谷司教の年頭司牧書簡を紹介しました。引用の中に『これからの教区はいわばキリシタン時代の宣教司牧体制になるのです』と言われていました。ではその時代にキリスト教を信じた人がどのように伝えて行こうとしていたのでしょうか。一つのヒントを紹介します。「コンチリサン*1の神父がいなくなっても、神の憐みがあるということです。十字架のイエスに頼む心により救われる・・・ことを説いている。・・・司祭不在の時代を予見して、宣教師は残る信者に自分たちの想いを伝えたのです。誰がいなくなっても、どんな時代にあっても、告白の秘跡ができなくても、ご聖体がなくても、あなたが救われるには、『頼もしくも神の憐みにすがること』を伝えたのです。」*2これは迫害の時代のことですが、口伝えで受け継がれてきたことが日本再宣教の時に長崎で明らかになったのです。
 これを現代の教会で実現していくヒントは今回のシノドスにあります。「勝谷司教からの『宣教』『司牧』の提案をともに考えていきましょう」と先月のぶどうの木で締めくくりましたが、そのためには「シノドスの歩み」の手法を用いることによって答えを模索する歩みを続けていくことではないでしょうか。「ともに歩み」「ともに分かち合う」ことによって、わたしたちに気づきが与えられるはずです。
*1悔い改め、ゆるし、という意味
*2森一弘、「日本の教会の宣教の光と影 キリシタン時代からの宣教の歴史を振り返る」、25ページ

2022.2.27  年間第8主日説教

第一朗読:シラ書(シラ27・4-7);話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない
答唱詩編:(詩編92・2+3+4、13+14+15);たて琴をかなで、楽の音に合わせて、わたしは神をほめうたう。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・54-58);神は、イエス・キリストによってわたしたちに勝利を与えてくださる
アレルヤ唱:(フィリピ2・16a+15d);あなたがたはいのちのことばを保って、ともしびのように夜を照らしなさい。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ6・39-45);口は、心からあふれ出ることを語る

今日の福音は引き続きルカの平地の説教です。聖書を見てみると先週の福音とのつなぎの部分があり「イエスはまた、たとえを話された」という言葉があります。ですから、その前の教えを補足説明するところであることがわかります。先週の福音を見ると、イエスが弟子たちに「敵を愛しなさい」「人を裁くな」ということを教えました。それはイエスの弟子であるわたしたちに対する教えでもあります。今日の福音がその補足説明であれば「盲人が盲人の道案内をすることができようか」というのは「人を裁くな」という教えの別の視点からの説明だとわかります。「人を裁くな。そうすれば裁かれることがない。」先週の福音で言われたことばです。

「人を罪びとだと決めるな。」例えばひきこもりの人がいます。わたしたちはなぜひきこもっているのだろうと考えます。なぜ働かないのだろうと思います。もしかしたら働かない人に嫌悪感を抱くかもしれません。その人と距離を置くかもしれません。人を裁くな、とイエスは言います。ホームレスの人がいます。なぜホームレスなのだろうと思います。なぜ仕事をしないのかと思います。もしかしたらその人に嫌悪感を抱きます。その人と距離を置きます。人を裁くな、とイエスは言います。イエスが人を裁くなと言っている人というのはそういう人々のことです。

わたしが司祭になってすぐ、2016年のワールドユースデーに参加しました。そのころは「どうせ青年のお祭りだろう」と考えていました。うるさい青年と一緒に行くのは嫌だなと感じていました。これは人を裁いている心の状態です。今日の福音の盲人の話も自分の目の中の丸太に気づかない人の話も同じことです。イエスの弟子ならイエスの生き方を学び歩まなければならないのです。イエスにならい、イエスのようにならなければならないのです。目が見えない人というのは人を裁くという心を持っている人のことです。イエスの心をもたず人を裁く心を持っている状態です。わたしも人を裁く心を持った状態でした。

しかし、ワールドユースデーに参加して目が開けた状態になりました。世界中の青年と直接会話して一緒に行動することで青年に対する偏見が消えました。単なるお祭り騒ぎという考えも消えました。青年たちはそれぞれ一人の人間です。会話し交流をすることでその信仰を理解することができるのです。キリストのもとに一つに集う同じ信仰を持った人間なのです。そこにキリストがともにいるという感覚を持つことができたのです。ワールドユースデーはお祭り騒ぎではなく、イエスの受難と十字架、復活をしっかりと感じられるプログラムでした。それを体験し、わたしの目も見えるようになり丸太も取り除かれたように感じました。そこにいる人を遠く離れたところから見るだけでは理解できないのです。共に交わり、共に歩むことで分かることがあるのです。それによって裁く心というものがなくなり共感する心が生まれてくるのです。

2022.2.20 年間第7主日説教(C・年・緑)

第一朗読:(サムエル上26・2、7-9、12-13、22-23);主はわたしの手にあなたを渡されたが、手をかけることをわたしは望まなかった
答唱詩編:(詩編103・3+4、8+13、11+12);心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。
第二朗読:(一コリント15・45-49);わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなる
アレルヤ唱:(ヨハネ13・34);新しいおきてをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたを愛したように。
福音朗読:(ルカ6・27-38);あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい

今日の福音は先週から続く平地の説教の続きです。先週も述べましたが、これは新しいキリスト信者に向けてイエスが示す新しい生き方を示していると考えられます。ここではキリストが指し示す愛を実践できるのかが問われています。父である神の憐みを表す者になること、キリストの生き方を表す者になることが求められています。

しかし、それを実行することはとても難しいことかもしれません。自分に対して嫌なことをする人には近づきたくないし、かかわりたくないし、親切にするなんて無理だと考えるかもしれません。ところがイエスの教えは違います。どのような相手であっても、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」ということを基本にします。この黄金律と呼ばれるどの文明にもある法則に置き換えれば、自分が愛されたいのであれば、敵も愛さなければならないことがわかりますし、悪口を言う者にも祝福を送ることができるのです。

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない」ともイエスは言います。人を罪人だと決めてはならないのです。そうすればあなたがたも罪人だと決められることがないのです。人を見てレッテルを貼ってはいけないということです。たとえば、あの人は若者だから、あの人は遊んでいるから、あの人は手伝ってくれないから、あの人は教会に来ないからと言って、決めつけてはいけないのです。

わたしたちは進んで神の憐みの中に入りましょう。すべての人が神に赦されるのですから。そのようにわたしたちも人を赦しましょう。そうすればわたしたちも赦されるのです。わたしたちはすでに多くのものを受けています。その受けたものをわたしたちは誰かに与えることができるのです。イエスの教えを携えて出向いていくことによって多くの賜物を受け、わたしたちからも多くの賜物を与えることができるのです。それが大きな実りを生むことになるのです。今日の福音はわたしたちにその大切さを心にとめて歩むことを求めているのです。

2022.2.13  年間第六主日説教

第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ17・5-8);呪われよ、人間に信頼する人は。祝福されよ、主に信頼する人は
答唱詩編:(詩編1・1ac+2、3、6);しあせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・12、16-20);キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい
アレルヤ唱:(ルカ6・23ab);喜びおどれ。天においてあなたがたの報いは大きい。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ6・17、20-26);貧しい人々は幸いである。富んでいるあなたがたは、不幸である

今日のルカによる福音の並行個所としてマタイによる福音にも同様の個所があります。それはマタイの『山上の説教』(マタイ5・1参照)です。ルカの場合は『平地の説教』(ルカ6・17参照)と言われています。ここでは「幸い」と「不幸」が出てきます。マタイもルカも4つずつです。ルカではそれぞれ最後の一つを要約する形で「幸い」と「不幸」が語られています。どちらの福音もイエスの説教の最初にあたりますから、新しいキリスト信者に向けてイエスが示す新しい生き方を示していると考えられます。

まず、ルカとマタイの初めの部分を見て見ましょう。
・貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6・20)
・心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ5・3)
ここの部分はほとんど同じです。
・今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。(ルカ6・21)
・義に飢え乾く人は幸いである、その人たちは満たされる。(マタイ5・6)
ルカはどちらも単純に「貧しい」「飢えている」と言っています。ルカによる単純さの方がより理解しやすいかもしれません。マタイでは「その人たちは」と第三者のことを言っていますが、ルカでは「あなたがたは」と目の前にいる群衆のことを言っていますので、この点でも親しみやすさが違うでしょう。

そしてルカ福音書の3つ目の幸いをわたしは司祭叙階カードの聖句としました。
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6・21b)
マタイ福音書で対応する個所は次の言葉です。
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5・4)
マタイによる福音ではなくルカによる福音の個所を叙階カードに選んだのは、「あなたがたは笑うようになる」というところが決め手でした。どちらも素晴らしい言葉ですが、悲しくても泣いていても、神がわたしたちを慰めるだけではなく、笑うようにしてくださるという希望を感じたからでした。わたしたちが自ら笑うようになるのです。神の国はあなたがたのものなのだから、神はわたしたちを救いに来てくださるのです。神がわたしたちを永遠の幸福に導いて、笑うようにしてくださるのです。イエスの福音がそこには満ちあふれています。現実にそういう人々を神は救ってくださるのです。

対して、不幸であると言う言葉は、神なしでも満たされている人々に幸いの道を選ぶようにという戒めの言葉であると言えます。「富んでいる」「満腹している」「笑っている」人々には変わる機会が与えられているのです。その人々は満たされている時は神から離れてもいいと考えているかもしれませんが、いつ満たされなくなる時が襲ってくるかしれないのです。その時に神に頼っても遅いのです。人生にはいつも迷いがあります。それは悪いことではありません。神から離れることも、神を思い出すことも、神に頼ることもあるでしょう。しかし、人生の終わりには最終的にどちらかを決めなければなりません。死はすべてを神にゆだねる瞬間であり、その人の地上での時間が終わる瞬間なので、その時に心に思っていることはもう変えられないのです。すべてがその瞬間に決定してしまうのです。その時に神なしでもいいと思っている人は、もう神に近づくことができないのです。神のもとで安らかに憩うためには普段から神の恵みに感謝して生きていくことが大切であるし、人生の終わりに神に心を向けることも大切なのです。今日の「幸い」と「不幸」はわたしたちの生き方を変えてくれる最初のイエスの問いかけなのです。

2022.2.6  年間第五主日説教

第一朗読:イザヤの預言(イザヤ6・1-2a、3-8);わたしがここにおります。わたしを遣わしてください
答唱詩編:(詩編138・1+2ab、4+5+7d、8);主をたたえよう。主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・1-11、または15・3-8、11);わたしたちはこのように宣べ伝え、あなたがたはこのように信じた
アレルヤ唱:(マタイ4・19);わたしのあとに従いなさい。人を捕らえる漁師にしよう。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ5・1-11);彼らはすべてを捨ててイエスに従った

今日の福音はシモン・ペトロをはじめとする漁師たちがイエスのことばに従って漁をすることによって神の恵みに気づきイエスに従っていく物語です。最初の弟子たちの召命の物語がルカによって語られているのです。マタイやマルコにも同様の召命物語がありますが、イエスのことば「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」としかありません。しかし、ルカにはその前にイエスとシモン・ペトロとのやり取りが描かれています。「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」とイエスに言われて、シモンは信頼をもって「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。そしてイエスが行われた不思議な出来事によってシモン・ペトロがイエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ってからようやく「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とイエスは言われるのです。

「お言葉ですから」の『お言葉』という言葉をどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。それはマリアのもとへ天使ガブリエルが遣わされたときに告げられた言葉に対してマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言った答えの中にあります。ギリシャ語の聖書の中では『言葉』という単語は使い分けられています。今日の福音の初めに「神の言葉」とありますがこの『言葉』と「お言葉」の『言葉』は違う意味合いがあります。「神の言葉」というのは救いをもたらす神の福音やイエスご自身を表すのに対し、「お言葉」というのは発せられた言葉という意味の他に語られた出来事全体や不思議な出来事を示すものです。マリアが天使ガブリエルの言葉に信頼したように、シモン・ペトロもイエスの言葉に信頼して「・・・何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えたのです。

網を降ろしてみると想像以上の大漁で仲間の船にも手伝ってもらって魚でいっぱいになって沈みそうになりました。この出来事を通してイエスの恵みの豊かさに驚くと同時に、自分がいかに小さく罪深い者なのかとの思いから、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエスの足元にひれ伏してシモンは言うのです。初め「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが・・・」の『先生』という呼びかけから『主よ』と変わっています。シモンは人間としての「先生」という呼び方から、不思議な力を感じた神である「主よ」と言っているのです。それによって「わたしから離れてください」と言います。当時、神を見た人はその聖性の前で滅びてしまうと考えられていましたのでそのように言ったのです。

イエスはシモンに「恐れることはない」と言われました。イエスが来られたのは罪人を滅ぼすためではなく、救うためなのです。罪人こそ救われるべきであり、神に立ち返り、神との交わりに加えられるべきなのです。「今から後、あなたがたは人間をとる漁師になる」とイエスは言われ、彼らはすべてを捨ててイエスに従うことになります。「人間をとる漁師」とは、人をイエスに導き永遠の命に招く者ということです。わたしたちも同じように「人間をとる漁師」としてイエスに招かれているのです。わたしたちは日々の生活の煩いのせいで、神とイエスと聖霊のことを見失ってしまうかもしれません。しかし、今一度神に立ち返り、イエスのことばに従って歩んで行き、聖霊の働きを感じることができるように祈っていかなければならないのです。

2022.1.30  年間第四主日説教

第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ1・4-5、17-19);わたしはあなたを諸国民の預言者として立てた
答唱詩編:(詩編71・1a+2+3a、3b+4+5a+6b、15+16);父よ、あなたこそわたしの神、わたしのすべてをあなたに。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・31~13・13);信仰と希望と愛はいつまでも残る。最も大いなるものは、愛である
アレルヤ唱:(ルカ4・18);貧しい人に福音を、捕らわれ人に解放を告げるため、神はわたしを遣わされた。
福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・21-30);イエスは、エリヤやエリシャのようにユダヤ人のためだけに遣わされたのではない

今日の福音ではイエスの故郷のナザレの会堂でイザヤの預言を朗読した後の様子が描かれています。人々は「わたしたちのよく知っているヨセフの子ではないか」と言って、イエスを預言者と認めないと言っている場面です。預言者とは未来に起こるであろうことを占う人のことを言うのではありません。第一朗読でエレミヤの召命を神が語る場面が語られました。その中で神は「あなたを…預言者として立てた。…(人々)に語れ、わたしが命じることをすべて」と言われています。つまり、神の言葉を伝えることが預言者のすることなのです。神の言葉を思い起こさせるように人々に呼びかけるのが預言者なのです。

先週の福音でイザヤの預言がイエスによって読まれました。そこでは「主がわたしを遣わされたのは捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にするためである」と読まれました。神の言葉を思い起こさせることが預言者の役割だとすれば、この聖書の言葉が実現したというのはわたしを遣わされたことが実現したということになります。そして預言者イザヤは今現実に捕らわれている人、目を見えなくされている人、圧迫されている人がいることを皆が知り、その人々を解放し、回復し、自由にするために行動しなければならないと訴えています。その言葉を宣べたイエスはイザヤの預言を通して自分も同じことを訴えるという意味で聖書の言葉が実現したと言っているのです。当時のユダヤ社会で人々が未来に来るであろう神の裁きを待ち望んでいたのに対して、イエスはまず一人ひとりが神の言葉に耳を傾けることの大切さを話していたのです。

今わたしたちが生きている現代においても預言者が必要です。今捕らわれている人、圧迫されている人、貧しくされている人、苦しんでいる人がいることを、多くの人々が当たり前と思っているかもしれません。すぐそばにそういう人がいるのに目を背けて、あるいは見ても人ごとのように感じているならその人は多くの人々の一人にすぎません。神の言葉は苦しんでいる人々を解放し自由にするために預言者を遣わすのです。洗礼を受けたわたしたちは、キリストの祭司職・王職・預言職を果たしていく者です。キリストの預言職を果たすということは、神の言葉に照らして今の世の中でふさわしくない、合致していないと思ったときに、それはおかしいと言わなければならないということです。世の中の趨勢に流されて多数が正しいということであっても、もし神の言葉に照らして正しくないなら、その考えは直していくよう行動していかなければなりません。イエスの福音を受け入れられなかったナザレの人々の姿は、現代の世でも同じです。世間的なレベルでしかイエスを見ていないのです。わたしたちキリスト者こそ現代の世の中で人々を救い出すために預言者の役割を果たしていかなければなりません。預言者と言われると、そんなこと自分には無理だという人がいるかもしれません。それは違います。キリスト者として自分の意見を声に出して言う、行動していく、あるいは援助していく人が預言者なのですから、それぞれにできることはあるはずです。

カトリックの洗礼を受けているすべての人は、キリストを宣べ伝える使命があります。これは子どもでも例外ではありません。子どもも小さな預言者です。子どもは子どもなりに何かできるはずです。今日、1月の最終日曜日の「カトリック児童福祉の日」は、子どもたちが子どもたちへ宣教し、まだキリストを知らない多くの国の子どもたちへ援助することを通して、子どもたち自身が自分の使命に目覚め成長することを目的としています。日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています。この日の献金は全世界からローマ教皇庁に送られ、世界各地の恵まれない子どもたちのために使われます。子どもたちの成長の中で子どもたちに何ができるかを考えながら、キリストの預言職の目が芽生えるよう祈りましょう。

~広報誌「ぶどうの木 2月号」巻頭言より

「宣教」と「司牧」
 わたし佐藤謙一は2016年4月29日に司祭叙階されました。当時、教会には基本的に主任司祭が居住しているのが普通でした。たとえば、小樽教会にはオール神父様が居住して「司牧」されていて、倶知安教会も兼務されて「宣教」されていてどちらも毎週ミサがありました。ほかの札幌地区の教会でも主任を兼務している教区司祭の教会には協力司祭がすべて常駐していたのでミサがなくなることはありませんでした。ただし、フランシスコ会に委託されていた旭川・釧路・北見地区に関してはそれぞれ主任司祭が4つの小教区を担当されていて、現在に至る「司牧」者の減少の先駆けとなっていたことに少しだけ危機感をもっていたことを覚えています。
 今はどうでしょうか。これを書いているのは2022年1月22日ですが、わたしが担当しているのは小樽教会のほかに手稲教会と倶知安教会です。2021年4月に任命されたのですが、任命に当たって新型コロナ禍の中で出来るだけミサを提供するという方針で、基本的に毎週日曜日の9時30分のミサとそれに代わって月に一回13時にミサを行うことを皆さんに伝えました。本来「司牧」的には毎週同じ時間にミサを行うべきです。しかし、時間をずらさなければミサを続けることができない状況となっていたのです。今年の復活祭以降はもっと厳しい状況になるでしょう。つまり、皆さんが集会祭儀を行うか、あるいは手稲や倶知安の教会のミサに与るかということになるでしょう。札幌市内とは違い、小樽周辺の教会は距離が遠く倶知安に行ったり手稲に行ったりするのは困難です。その中でどのように「宣教」していかなければならないかを考えなければなりません。それをわたしだけが考えるのではなく皆さんも一緒に考えてもらわなければいけないと思っています。
 「宣教」を考えるのは教会に所属する信者の皆さんです。もし司祭だけに「宣教」を任せるならこれから徐々にカトリック教会は滅び行くことになります。なぜなら司祭にその余裕がなくなってきているからです。勝谷司教は2022年の『年頭司牧書簡』の中で次のように述べています。
『札幌地区においても、ごく限られた数の司祭で地区全体を「司牧」しなければならない状況になります。これはすなわち、司祭は各教会を巡回してミサや秘跡の執行に当たり、教会の管理運営、「宣教」活動は信徒が行わなければならないということです。』
 もっと大胆に「宣教」と「司牧」を考えて行くチャンスが巡って来たのではないかと思います。勝谷司教は最後に次のように述べています。
『これからの教区はいわばキリシタン時代の「宣教」「司牧」体制になるのです。17世紀、数少ない司祭は各地を巡回してまわり、教会は信徒によって維持され、「宣教」もなされていました。しかし、教会はこの時期、すなわち迫害が起き司祭がいなくなってから、教勢がピークになったと言われています。つまり司祭がいない中で信徒によって「宣教」活動がなされ、信者が増えて行ったのです。』
危機は突然訪れます。このピンチをチャンスに変えて行くことができるかどうかが今を生きるわたしたちに問われているのです。勝谷司教からの「宣教」「司牧」の提案をともに考えていきましょう。

※宣教と司牧にあえて「」(カギ括弧)を付けています。
※信者とは、信徒と聖職者すべて。逆に、信徒とは聖職者を除く信者。

写真集

  カトリック札幌司教区 札幌司教区 小樽教会(公式) *主任司祭 佐藤謙一神父の言葉*

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