教皇ミサでの退堂行列

諸聖人(11月1日、祭日)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2021年11月1日

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第一朗読:ヨハネの黙示(黙示録7・2-4、9-14);わたしは、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆を見た
答唱詩編(詩編24・1+2、3+4、5+6);門よ、とびらを開け、永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入る。
第二朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-3);わたしたちは御子をありのままに見る
福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・1-12a);喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある

信仰宣言の中に「聖徒の交わり」ということばが出て来ます。祈りの中で諸聖人や亡くなられた方々との霊的な交わりを行うということです。つまり、この地上の教会と天上の教会と煉獄の教会という3つの教会が声を合わせてともに祈っているということを信じているという宣言です。聖人というと身近には、皆それぞれ洗礼名となる名前を持っています。その聖人に取り次ぎを願ったり、あるいはその聖人が地上で行ってきたことを思い起こして自分の信仰生活の模範としたりします。聖人の中には「守護の聖人」というのがあって、今日読んだ福音記者マタイは徴税人だったからか「銀行の保護者」とよばれています。聖アントニオという聖人がいますが、失くしたものを思い浮かべながらその名を8回唱えると失くした物が見つかるそうです。聖人というのは教会が定義した人々で、確かに天国に行き、神のそばでこの世に生きる人々のために祈ってくれている、ということを宣言された人のことです。

さて、今日の福音は「真福八端」と呼ばれる個所です。神はどのような人を祝福するのかということが書かれています。聖人は言わばこれらの愛の業を通ってきた者だと言えるでしょう。わたしたちが諸聖人と同じように生きようとするとき、神の祝福は必ず受けられるのです。わたしたちは、洗礼を受けて既に神の子となっていますが、自分がどのようになるかははっきりと知ることはできません。洗礼を受けてもそんなに変わらない自分がいるだけです。しかし、諸聖人の姿を見たときにキリストに似た者となるのだということは知ることができます。皆さんがそれぞれ思い入れのある聖人がいると思います。その聖人にならって生きていくことができるよう取り次ぎを願うのもいいことです。

ところで、「しんぷくはったん」と呼ばれる個所は信徒としてのあり方を問う個所として取り上げられることがあります。倫理的な基準として考えられることがあります。しかしそうしなければならないと考えるよりも、そうされてしまった人々に対して神がどう見ているかと考えるべきだと思います。ここでイエスが語ったことばは、目の前にいる弟子たちに向けて語った祝福の言葉です。そしてまた、いろいろな悩みや病気、問題を抱えてきた群衆に向かって語った言葉です。「貧しい人」「悲しむ人」「飢え渇く人」がなぜ幸いなのか。それは「天の国はあなたがたのもの」だからです。「国」はギリシア語で「支配」という意味や「王であること、王となること」を意味します。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神が王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのだというのです。「満たされる」とか「慰められる」のは神によってという言葉が付け加えられれば、よりわかりやすいと思います。つまりこれこそ、わたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」なのです。

福音の最後に「喜びなさい。大いに喜びなさい」とあります。わたしたちはこの福音を聞いたときに、喜びに満ちあふれて生きていかなければならないのです。8つの幸いのうちの、後半の4つは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。そういう生き方をわたしたちができるでしょうか。そういう生き方を通して、イエスのために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」わたしたちは神に祝福されるのです。わたしたちの人生の歩みをこの8つの幸いという祝福の言葉に当てはめて考えてみましょう。とてもよい信仰の振り返りになるはずです。

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