花川マリア院の馬小屋の飾り

聖霊降臨の主日(2021年B年)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2021年5月23日

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・1―11);一同は聖霊に満たされ、話しだした
答唱詩編:(詩編104・1b+24、29+30、31+34);神よ、あなたのいぶきを地のおもてに。
第二朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ5・16―25);霊の結ぶ実
続唱:聖霊の続唱;聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐかた。優しい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。苦しむときの励まし、暑さの安らい、憂いのときの慰め、恵みあふれる光、信じるものの心を満たす光よ。あなたの助けがなければすべてははかなく消えてゆき、誰もよく生きては行けない。汚れたものを清め、荒みを潤し、受けた痛手をいやすかた。固い心をやわらげ、冷たさを温め、乱れた心を正すかた。あなたのことばを信じてよりたのむものに、尊い力を授けるかた。あなたはわたしの支え、恵みの力で救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。アーメン。アレルヤ。
アレルヤ唱:アレルヤ、アレルヤ。聖霊来てください。信じる人の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしてください。アレルヤ、アレルヤ。
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ15・26―27、16・12―15);真理の霊はあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる

わたしは神学を学んできましたが、それは自分の知識を増やすことが目的ではありません。キリスト者であるわたしが持っている信仰を、希望をもって表明するための道具として神学を学んでいるのです。わたしが受けた信仰、わたしが確信している信仰、そしてその確信に生きようとしている信仰を自分自身の言葉で語ることが「神学する」ことの目的なのです。ですから、キリスト論や教会論、あるいは聖書学や典礼学、宣教学など様々な神学の分野はすべて、わたしが受けた信仰をいろいろな形で表現する道具にすぎないとも言えます。例えば使徒聖ペトロの手紙に次のように書かれています。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(1ペトロ3.15-16)と。わたしたちキリスト者は、信仰の希望に満ちた表明を求められたら、喜んでしましょうということです。特に、わたしたち司牧者が信仰を表現する際にはより多くの切り口が必要となります。それはいろんな方から信仰に関して様々なことを聞かれるからです。これに対しては丁寧に平易な言葉で分かるように答えていかなければなりません。なぜこんな話をするかというと、「神学する」ということが学問の世界だけの話なのではなく、実はわたしたち自身の生き方が問われていることだからです。
わたし自身のうちに持っていて・確信し・それに生きようとしている信仰をわたし自身が知り・語るために神学をするのです。ですから、自分の信仰の中にある希望を語るということが神学することであるとするなら、皆さんも神学していることになりますし、自分の受けた信仰をいろいろな形で表現していると思います。

では希望を語るためにどうすればいいのでしょうか。第一に「信仰」が必要です。これなしには何の希望も語れません。第二に「聖書」です。聖書はキリスト教信仰のよりどころですから信仰を語るにあたっては聖書をひも解く必要があります。第三に「勇気」です。おや、と首をかしげたくなるかもしれません。なぜ「勇気」が必要なのでしょうか。「神学する」にはキリストのメッセージをしっかり見極めなければなりません。もしかしたらその見極めの過程において自分が持っていた信仰の形が自分勝手な信仰理解だったことに気づくかもしれません。また現代の教会が何を目指しているのかも知らなければなりません。もしかしたら、それを知ることはわたしたちの信仰のイメージを壊してしまうかもしれません。さらにわたしたちの信仰の表現は現代世界に対して行われるものですから、現代世界が何を求め何に悩んでいるのかを知らなければなりません。そんなときに、今まで持っていた理解を変えていく「勇気」が必要になります。そして自分の信仰の中の希望を語ろうとするとき周りの人に表明するわけですから、大変な「勇気」が必要です。

イエスの死に直面した弟子たちは、当初、ユダヤ人におびえて家に隠れて鍵をかけたり、失望してみんなから離れていったりしました。第一朗読の出だしも「一同が一つになって集まっている」とありますからそのことを表していると思います。その後、弟子たちが聖霊に満たされ、いろいろな地方の言葉で神の偉大なわざを語り出したことが描かれています。失望していた弟子たちは勇気をもって全世界の人々にイエスのことを宣べ伝え始めました。ものすごい変わりようです。使徒たちの宣教の2章2節から4節の間に描写されていることは、聖霊降臨の描写だと考えられています。この記述は2000年前の人々には理解できたでしょうが、現代のわたしたちにはどういう状況か理解できません。しかし弟子たちはここで示された何らかのきっかけがあって、勇気をもって福音を宣べ伝え始めたことは確かなことです。

洗礼によってキリスト者となったわたしたちも、ここに描かれた弟子たちと同じ聖霊をすでに受けて、福音を宣べ伝えるよう導かれています。聖パウロはガラテヤの教会への手紙で、霊の導きに従って歩みなさいと言っています。聖霊に生きる者はその導きに促されて自分のなすべきことを神の前に「判断し」「確信する」ことができるのです。もし何かを「確信し」「判断する」勇気をもつことができなければ、聖霊に導かれて生きているとは言えません。使徒聖ヨハネは福音書において、聖霊、ここでは真理の霊と言われていますが、それはわたしたちにとって弁護者であり、いつもわたしたちを助けてくださり、真理を悟らせてくださると言っています。聖霊はわたしたちが今生きている状況に応じて、イエスの言葉を思い起こさせ、イエスの教えの本当の意味を悟らせてくださるのです。病気をしたり、何かに失敗したりしたときにも聖霊を通して神の力が働いていることをわたしたちは知っています。ですからわたしたちは苦しくてつらいときも決して失望することなく信仰を希望をもって表明できるのです。今日聖霊降臨を記念するわたしたちが、キリストの言葉を勇気をもって現代社会に響かせていくことができますように祈ってまいりましょう。

追伸

※2015年の助祭の時の習志野教会での説教より

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