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復活節第4主日(2020年5月3日、A年・主日・白)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年5月3日

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・14a、36-41);イエスを、神は主とし、またメシアとなさった
答唱詩編(詩編23・2+3、4、5、6);主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。
第二朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ2・20b-25);あなたがたは魂の牧者である方のところへ戻って来た
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ10・1-10);わたしは羊の門である

今日はよい牧者の主日と呼ばれています。
復活節の第4主日から第6主日まではヨハネによる福音が読まれます。
復活したイエスがわたしたちとどのような関わりがあるのかという視点で読まれるわけです。

さて、今日の福音は牧者としてのイエスの姿が語られています。
イエス自身は『わたしは羊の門である』と言っています。
よいかどうかは見る人が判断すること、あるいはイエスの恵みを受けた人が判断することであって、
イエスはただ単に『羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』に来られたのです。
イエスにとって他人の評価がどうであろうと構わないのです。
羊であるわたしたちが永遠のいのちを受けるように働かれるだけなのです。
それがイエスの価値基準であり、わたしたちにもそういう価値基準を求められているのです。

教会憲章という公文書が第2バチカン公会議で作られました。
これは全世界の司教、枢機卿が集まって作られたもので、現代のカトリックの信仰の集大成であります。
その中で聖職位階制度を説明するところで、「キリストはこの使徒たちの後継者すなわち司教たちが、自分の教会において世の終わりまで牧者であることを望んだ」と始めています。
この構造が神から与えられた基本的なものであることは聖書に記述されていることからわかります。
この聖職位階制度を尊重するように教えてこられました。
ただしそのことは現実の教会の実態に信者が目をつむっていても大丈夫だということにはなりません。
旧約の時代から、有能な祭司と同時に、無能な祭司がいたということが記述されています。
よい預言者がいると同時に偽りの預言者もいるわけです。
現代の教会においても司祭や司教、修道者の中にもよい者もいればや悪い者もいるかもしれません。
偽りの中にある聖職者もいると思います。
それは現実です。
それぞれの賜物に応じてそれぞれの務めを果たしていると言ってしまえばそれまでですが、
すべての司祭が有能かどうか、ふさわしく福音を語っているかどうかということとは別問題です。
そういう意味では、わたし自身も自信がありません。

それぞれの賜物に応じてそれぞれの務めを果たしていると言いましたが、それは信徒のみなさんにも言えることです。
よい信徒か悪い信徒かというレッテルではなく、それぞれの務めを果たして福音を生きているかどうかが求められるのだと思います。
キリストはどのような場所であってもどの時代であっても、自分の羊の名を呼んで連れ出してくださる方です。
キリストはいつでもわたしたちの進むべき指針を与えてくださいます。
聖書の中からそれを見出しましょう。
あの神父はいいことを言ってくださるのに、この神父はおかしなことをしていると見えることがあるかもしれません。
そういう基準で判断すると、あの神父はすばらしいという「あの神父教」という宗教になってキリスト教ではなくなってしまいます。
あるいは、あの神父は間違っているからといって教会を離れたりすることが起きるのです。
ですから皆さんの耳に心地よいことを言う神父にはついて行かない方がいいですよとアドバイスします。
逆に自分に耳ざわりなことを言う神父がいるからと言って教会を離れないでほしい。
適当に聞き流していればいいと思います。
何年かしたらその神父は別の教会に行きます。

わたしたちは、永遠のいのちを与えてくださるキリストに従うようにすればいいのです。
それは聖書に学ぶことによって与えられるものです。
キリストがおっしゃられていることは何なのかということに、耳を傾けていきましょう。
それによって司祭が変わろうとも司教が変わろうともゆるぎない信仰が皆さんの中で形作られていくと思います。

ところで今日のミサは世界召命祈願の日として祈ることになっています。
司祭、修道者への召命を祈ることと思いがちですが、信徒の召命ということを祈っていきましょうと教皇フランシスコは呼びかけられています。
わたしたちもそれぞれの召命に向かってキリストの語ることばに耳を傾けていきましょう。

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