教皇ミサでの退堂行列

年間第26主日(2021年B年)

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2021年9月26日

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※公開ミサ・集会等中止になる担当小教区(手稲・小樽)の皆さんのためにあらかじめ説教の原案を紹介します。
第一朗読:民数記(民数記11・25-29);彼を不名誉な死に追いやろう
答唱詩編(詩編19・8、10、12);主よ、あなたは永遠の命の言葉。
第二朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5・1-6);あなたがたの富は朽ち果てる
福音朗読:マルコによる福音(マルコ9・38-43、45、47-48);わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。

今日の福音では「お名前」という言葉が出て来ました。弟子たちが言う「お名前」というのはあなたの「お名前」ということです。つまり、イエスの名によって祝福しているということです。そのあと、イエスは「わたしの名」と言いました。当然イエスの名を使って祈りをするということはイエスの力が働いているということになるのです。もし反対する者がいたとして、イエスの名を使うでしょうか。

イエスの力を信じて歩む者にしかその名を発することはできないでしょう。それほど名前と言うものは大切な意味があるのです。もし反対している者がいるとしてイエスの名を唱えて祝福している者がいれば、その時点ですでに味方なのです。弟子たちに反対しているのでありイエスには反対していないのです。

もしかしたらわたしたちの中でもそういうことはよくあるかもしれません。教会の中でもあの人は嫌いとかあの人は合わないということがあるかもしれません。でもその人は誰かに一杯の水を飲ませてくれるかもしれません。誰かに手を差し伸べているかもしれません。それが無意識にでもキリストの弟子だという名の下で行っているとしたらイエスの味方なのです。イエスによる報いはこの世では行われないかもしれません。しかしイエスは「必ずその報いを受ける」と言っています。その報いはわたしたちが生きているときにもあるでしょう。もちろんわたしたちの生涯が終わったのちにもはっきりと受けられると信じているものです。先週の福音でもイエスは言っています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と。イエスの名はわたしたちの希望であるのです。それは十字架上の死によってわたしたちの罪をあがなってくださっただけではなく、弟子たちへの復活の体の現れと永遠の命を示してくださったのです。

今日の福音の後半は「つまずかせる」という言葉が出て来ます。これは誰かをつまずかせるということと弟子たちが自分につまずかないことが述べられています。つまずかせることとは、自分を神から引き離し罪に誘うものと考えることができるでしょう。もちろん手足を切り捨てるとか、目をえぐり出すとか、これらはたとえですから本当にしなくてもいいと思います。しかしそのくらい神や人への愛からわたしたちを引き離すものを遠ざけなさいということを言っているのです。イエスを信じる小さな者をつまずかせるなということです。イエスの教えはわたしたちの日常の生活の中のごく小さなことをも指し示しています。今日の朗読を通してわたしたちがイエスの弟子として人々に福音を告げ知らせて行くことができるよう祈りましょう。

ところで今日は「世界難民移住移動者の日(献金)」に当たっています。聖書と典礼の7ページにこの日に当たっての文章が寄せられていますので是非読んでいただきたいと思います。わたしたち自身はどんな国から来た方々も温かく受け入れていますし、街中でもそうです。差別も偏見もありません。しかし日本の入管や難民認定制度上、死の苦しみを受けている方々がいることを決して忘れないで、わたしたちがどうすればいいのか、何を変えていかなければいけないのかを考えていかなければなりません。

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