神学校入学式ミサ

年間第24主日(2021年B年)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2021年9月11日

※公開ミサ・集会等中止になる担当小教区(手稲・小樽・倶知安)の皆さんのためにあらかじめ説教の原案を紹介します。
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ50・5-9a);わたしは、打とうとする者には背中をまかせた
答唱詩編(詩編116・1+2+3+4、5+6a+7b、8ab+9);荒れ地の乾きはてた土のように、神よ、わたしはあなたを慕う。
第二朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ2・14-18);行いが伴わないなら、信仰は死んだものである
福音朗読:マルコによる福音(マルコ8・27-35);「あなたは、メシアです。」人の子は必ず多くの苦しみを受ける

今日の福音は最初の受難告知の場面です。今日の福音ではペトロの信仰宣言のあとに告知されます。そこでイエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われます。今までいろいろなことを示してきたイエスを、人々は何者だと思っているのかを弟子たちに聞いたのです。病人をいやしたり多くの人にパンを増やして与えたりしていましたから、人々の評判はよかったのだと思います。『洗礼者ヨハネだ』とか『エリヤだ』とか『預言者の一人だ』と言うのです。人々の評価を聞いた後にイエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と問います。イエスとともに歩み、イエスの行ってきたことをいつも見てきた弟子たちに問いかけるわけです。弟子たち自身の判断を迫るわけです。真っ先にペトロは答えます。
「あなたは、メシアです。」
わたしたち自身はどう答えるでしょうか。

今日の福音はそれでは終わりません。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、…殺され、三日の後に復活することになっている」。
最初に述べた受難の告知がイエスの口から発せられます。救い主ではあるけれども、この世で王となって民衆の救いを実現するという者ではないということを示します。苦しい時の神頼みで自分を救ってほしいというそういう救いではないのです。苦しいときに優しい言葉で救いの言葉が語られて安心するという救いをイエスはもたらすわけではないのです。あるいは、今の苦しい状況を単に解消してくれるわけでもないのです。

イエスがもたらすのは、人それぞれの十字架をそれぞれが背負ってイエスとともに歩むことです。それがこの受難告知に示されています。イエスはすべての人の罪のあがないのために十字架につけられます。それを弟子であるわたしたちも自分自身の十字架を背負って歩むよう求められているのです。単にイエスの救いの言葉や行いを自分の都合のいいように解釈して安心するのではなく、それぞれに与えられた十字架を生きていくことが求められているのです。その歩みの中でイエスの救いが実現していくわけです。それを勘違いしたペトロはイエスにいさめられることになります。
「サタン、引き下がれ。」
これはとても厳しい言葉です。
「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

第二朗読でヤコブが言っています。
「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょう。」
この行いこそ自分の十字架を背負って歩むことです。決して自己満足のために行うことではなく、それぞれが置かれた場でイエスの行いを実践していくことなのです。今日の福音の最後のことばはそのまま受けとめることばです。イエスを信じる者すべてが心に留めておくべきことばです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

日本の教会では9月1日から10月4日を「すべてのいのちを守るための月間」としています。日本カトリック司教協議会会長である高見三明大司教からカテケージスが出されています。A4で11ページにわたるものですのですべてを紹介できませんが今週もその一部だけを抜粋します。
『B. わたしたち人間同士の関係
イエスは、すべての掟の要は神と人への愛であると言明され、神の愛と隣人愛が不可分であることを教えられました。ヨハネ福音書には神とわたしたちとの関係がどれほど深いかが説明されています。イエスは御父の内におり、御父はイエスの内におられる。イエスを愛する人を御父も愛され、御父とイエスはその人のところに行って一緒に住むのです。またイエスが死んで復活した後、御父が遣わす聖霊はわたしたちと共に、わたしたちの内におられるというのです。実際、主イエスは、聖霊によってわたしたちの心に神の愛を注ぎ、その愛を相互愛によって現わすよう諭されます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15・12)こうして兄弟を愛する人は神を愛し、神を愛する人は兄弟を愛することになるのです。ここでいう「兄弟」は、性別、年齢、心身の健康状態、出自、職業、国、言語、文化、宗教などの違いがあっても、それを超えて尊重されるべきすべての人のことです。従って、すべての人は、互いに相手の人間としての尊厳と基本的人権を尊重し、偏見や差別、いじめ、あらゆる暴力など、危害を及ぼすものからいのちを守り、貧困、飢え、難民生活などで苦しんでいる人々を助け支えるよう神から召されています。イエスのたとえの「善いサマリア人」はそのよい模範です。
ところで、新しい神の民である教会は、人と神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり、道具です。つまり、教会共同体は、すべての人にとって神との交わりと人間同士の交わりが実現し、広めるはずのものです。』

「すべてのいのちを守るための月間」に寄せて 日本カトリック司教協議会 会長カテケージス「環境問題と福音化」より

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/0...

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