年間第22主日(2021年B年)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2021年8月28日

※公開ミサ・集会等中止になる担当小教区(手稲・小樽)の皆さんのためにあらかじめ説教の原案を紹介します。
第一朗読:申命記(申命記4・1-2、6-8);わたしが命じる言葉に何一つ加えてはならない。主の戒めを守りなさい
答唱詩編(詩編15・1+2,3+4a+6);しあせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
第二朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ1・17-18、21b-21、27);御言葉を行う人になりなさい
福音朗読:マルコによる福音(マルコ7・1-8、14-15、21-23);あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている

わたしたちを神に近づけるものとして数々の信仰箇条があります。父と子と聖霊を信じることはその最初にあります。それ以外に生きて行くためには人と人との間の決まりがあります。一番古いものとして神の十戒があります。第一から第三戒は人と神との間の掟ですが、第四戒から第十戒までが人と人との間の掟になります。

  1. 第一、わたしの他に神があってはならない。
  2. 第二、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  3. 第三、主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
  4. 第四、あなたの父母を敬え。
  5. 第五、殺してはならない。
  6. 第六、姦淫してはならない。
  7. 第七、盗んではならない。
  8. 第八、隣人に対して偽証してはならない。
  9. 第九、隣人の妻を欲してはならない。
  10. 第十、隣人の財産を欲してはならない。

もちろんこれ以外にモーセの律法と呼ばれるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)にも詳しく規定が書かれています。

ところが食事の前に手を洗えという律法はありません。なのにここに出てくるファリサイ派の人々と律法学者たちは手を洗わないことで人々を戒めていたのです。彼らは昔の人の言い伝えを固く守っていたのです。この言い伝えには自分たちを「清める」ことで異邦人たちの「汚れ」から逃れるという宗教的な意味がありました。衛生的に清めるのではなく人と人とを分けるために清めるのです。無学な者はそんなことは知りませんでしたから「手を洗いなさい」と言われても従うしかなかったのです。「清め」は汚れた人々からの分離を意味していますが、「汚れ」というのは実は人々の交わりとか一致を意味しているのです。交わりは多様な人々が一致して歩むことであって人々を分断することであってはなりません。イエスは分離ではなく交わりを重んじていましたので無学な者や異邦人が昔の人の言い伝えで分断することは望みませんでした。逆にファリサイ派の人々や律法学者たちを多様な人々を分断する者として糾弾していたのです。

彼らに対してイエスは人の中から出てくるものこそが人を汚すのだと言います。出てくるものが12個並べられています。初めの6つは人の行いであり後の6つが人の思いを表します。みだらな行い、盗み、殺意(殺人のこと)、姦淫(姦通)、貪欲(むさぼる)、悪意(悪意のある行為)が人から出る汚れた行いです。詐欺(欺瞞、狡猾、裏切り)、好色(みだらさ、堕落)、ねたみ(悪意に満ちた心)、悪口(誹謗中傷、虐待的な言論、冒涜)、傲慢(人より誇る思い)、無分別(愚かさ、感覚の欠如)が人から出る汚れた思いです。この行いと思いがわたしたちには無いかどうかを究明してみてはいかがでしょうか。

使徒ヤコブは言います。
「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」
わたしたちはイエスが望んでおられることを清く汚れのない信仰をもって行うことによってファリサイ派の人々とは逆転した形で、まさに分断のない人々との交わりが実現できるのです。

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