教皇ミサでの退堂行列

希望に生きる(living in hope)8

佐藤謙一(さとうけんいち) により

2021年10月29日

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第二章 キリスト教における希望 1 希望をもって考える 3/3

ところでキリスト者とはどういう人のことを言うのでしょうか。洗礼を受けた人、洗礼を受けてキリストの人となる人はすべてキリスト者です。完全な秘跡のかたちの洗礼(水の洗礼)を受けるか、自分の命を完全に犠牲としてささげる洗礼(血の洗礼)を受けるか、あるいはまだ概念的には公に述べられておらず、また直ちに明確に述べることもおそらくできないかもしれない、心の奥底に秘められた願望によって暗黙のうちに洗礼(望みの洗礼)を受けた人、かれらはみなキリスト者なのです。隣人に対して心のこもった情感をもつということは、いくら繊細なことであっても、それはすでにキリストの心にあやかっていることのしるしであり、それだけで教会の一員でありたいという「暗黙の願い」なのです。それは進化全体と人類の力強い上向きの努力とを、決定的前進の最後のできごとであるキリストの出発、すなわちその復活にまで導くキリストのあの生命の脈動なのです。したがってキリスト者とは、パウロも言っているように復活する力をもっている人であり、キリストの苦しみを共にわかち合ったことがあり、自分たちの生命のうちにキリストの死の型(パターン)を(換言すれば希望を)もつ人々を再生させる人なのです。実際かれら端から復活することができると考えられています。これらすべての人は教会の一員であり、宇宙の救いの前衛なのです。これらの人間が宇宙の救いの前衛であることをはっきりと悟っていようと、あるいは聖書の考え方や用語ではまだ表現されていないようなやり方で、教会の一員としての義務を果たしていようとも……。

この意味では「教会の外に救いなし」(Extra ecclesial Nullabsetzungen sales)という神学上の所説はキリスト教の教義のうちでもっとも解放するメッセージのひとつです。もしこの命題が論理学のもっとも初歩的な法則に従って吟味されたなら、それはもはや憂うつなものでも言語道断なものでもなく、大いに解放し自由にするものであると解されることができます。普遍的否定命題は実際同じ意味の肯定的な命題に変えることができるのです。したがって先の命題は「救いのあるところに教会あり」(Ubi salus, ibi ecclesia)と」言ってもよいでしょう。この意味では、大いに非難されたこの教義は、自由を見事に肯定したものなのです。人間が真実にして善なるものを求めて誠実に努力するところ、また何かより偉大なものを希望して自らをすべて献げるところにはどこにでも実際に教会が現存するということは確かに解放的な考えです。すべてこれらの場合わたしたちが喜んで想像したり認めたりするよりもさらに純粋にキリスト教的な生活において、おそらくわたしたちが敢えて考える以上に救いは成就され、また教会は現存しているのです。

最後に、どのようにしてまたどんな基準によって個々のキリスト者は自分が心に抱いた希望の純粋さを測ることができるかという問題を提起しなければならないと思います。わたしたちの行動と考えに永遠不変の価値を付与する誠実さと正直さを評価するのにどんな基準を用いることができるでしょうか。これまで申し述べてきたことからみて殉教は確かに一基準と見做さねばなりませんし、事実上唯一の妥当な基準と見做さねばなりません。ハンス・ウルス・フォン・バルタザールの著書 Cordula oder der Ernstfall はもちろん論争的かつ反動的ですが重要な作品と認められています。その著でかれがキリスト教的な生活のこの本質的な一面に執拗なまでに注意を喚起したことに対してわたしたちは感謝しなければならないと思います。

キリスト教的な黙想というものは血の証明に関していつも決められるものです。何か自分の生命を賭けることのできるもの(それは必ずしも実際に死ぬことを意味するものではありません、おそらくはごくあたりまえのこととして他人に奉仕することからくる日々の心身の消耗や自分が失敗するということを神がお望みになることなどですが)そういうことこそはわたしのもっとも確信するところなのです。しかもそれは有限の存在や祈りや黙想のうちにある永遠の価値をともなうものなのです。どのキリスト者もすべての神秘や奥義について黙想し、教会の祈りを全部となえ、ありとあらゆることを同じようにさし迫ってなすようには要求されていません。ただキリスト者には自分が自己奉献をせよとの特別のお召しを耳にする時、その時こそはより一層深くその神秘にはいる権利と義務があるのです。その時このことはその人の特別に恵まれたカリスマ的な人格的生活をはじめ「祈りの神学」、それに信心深い考えを形作るでしょう。これを言いなさい、これを考え抜きなさい、そして自分の生命を犠牲にして救いたいと願うものが何であってもそれに突進しなさい。なぜなら希望の国における永遠の完成が実現されるからです。しかしキリストの心を心として殉教者の心構えで、つまり無防備でそれをなしとげなさい。無防備であるということが絶対必要です。打ち返したり勝ち誇ったりしないという決意が絶対必要です。十字架上の拷問を受け、かさかさに乾ききったキリストの口からもれた最後のいくつかのことばの内容はそれなのです。報復しないこと、抵抗しないこと、そして世俗から静かに離脱すること、これらは無条件に、円熟し完成したキリスト教的生活の深さを表しています。それはあまりにもしばしば世俗で敗北するように運命づけられる心構えですが、実は天国というわたしたちの「永遠のふるさと」が築かれる基礎でもあるわけです。キリスト者はまさにこの精神でまたこのような原理でもって自らの信仰の諸神秘について黙想しなければならないと思います。そうすれば、アンチオキアのイグナチウスがローマの信者仲間へ送った手紙のつぎのような美しいことばの真意を悟ることができるでしょう。
「わたしは囚人ですのでもう何も望まないようになりつつあります。わたしのために死んでくださった方を捜しています。わたしたちのために復活なさった方を見つけだしたいのです。誕生がわたしを待っています。本当の光を受けさせてください。そこに到達するときわたしはようやく人間となるのです。神の苦しみにならうことを許してください。神を心にもっている人ならだれでも、わたしが望むことをわかってくださるでしょうし、また死んで神のみもとへ行けるように祈ってくださることでしょう。」

これこそは生命を賭けて証明することの中に具体的に表された「希望の神学」なのです。この心構えは狂信的な来世のことがらとは少しも関係がありません。本当は全く逆です。このような心構えがなくてはこの世を本当に真面目に受けとることはできません。究極的な点においては現世の生活はさして重要でないということ、そしてまた永遠に続く幸福な歓喜に満ちた状態がこの生活の後に来るということを、キリスト者は確信しなければならないのです。それと同時に自分が絶えず捜し求めている、この世界を超越した神に信頼して生きていくのです。希望のうちに、すなわち生命のもっとも根強い望みによってかれはすでに幸福な歓喜に満ちた状態に到達しているのです。したがって何もかれの心を動揺させることはできません。地上にはかれが住むところはないのです。キリストはすでにかれとその生活を取られたのです。しかしこのようにこの世からの離脱が理由で、同じキリスト者がこの世にはいらねばならないのです。しかも事実上その途上にある天国をもほとんど忘れるほど、完全にこの世にはいらなければならないのです。なぜならこの世において本当に決定的なものは、名声や成功や自分が正しいということなどを顧慮しないでなされるものだからです。換言すれば純粋に人間の親切や善意からなされるものだからです。神はあらゆるものの中でもっともすぐれた方ですが、まさにそういう理由で神をいたるところで見つけることができますし、もっとも取るに足らない事物においてさえ見つけることができます。この世界のあらゆる道で神と出合うことができるのです。このような心構えをもつことによってこの世界のあらゆる境遇において神のお招きを見つける用意がいつも整うばかりでなく、徹底して隣人に仕えることもできるようになり、さらに存在し生きているものすべてに対して寛大になれるのです。キリスト者はどこにおいても、またもっとも取るに足らない事物においてさえ偉大な神を捜し求めねばなりません。もちろんキリスト者は不平不満を抱く勇気を持たねばならないと思います。神の平和へのたゆまない旅の他には住むところを持たないこと、それがかれの務めなのです。神のみでかれは十分なのです。現世においても来世においても信者の生活は限界のないものへの、いつまでも終わることのない前進なのです。どんなことが完成したとしても、それはそれ以上の探求の始まりに過ぎないのです。もっとも偉大なものや、もっとも美しいもの、またもっとも高貴なものでさえ、キリスト者にとっては十分なものではありません。逆説的な言い方をすれば、キリスト者はどんな偉大なものにも束縛されないであろうということです。キリスト者の願望はいつも、もっとも偉大なことがらよりも偉大なのです。

けれども他方ではこの世の取るに足らないことがらにおいて、キリスト者は自分の切望するものの巨大さを隠さなければなりません。キリスト者はあらゆるものを使うことができねばなりません。もっとも不十分な手段でさえも、それによって神に仕えることができるのなら、それをも使うようにならなければなりません。かれの希望はより高遠で偉大なものをいつも受け入れるのです。かれの生活の全容は測れないにせよ。その希望はこの世で達成されうるものという狭い範囲内にならなければならないのです。大事において無限に到達し、小事において狭い限界を受容できる人はだれでも、自己の人間的実存のうちにキリスト教的な希望を体現することができるのです。「もっとも偉大なものにも束縛を受けず、もっとも狭い限界をも受容する」ということは人生に関してのキリスト教的な考えと指導を的確に要約したものでしょう。たゆまない活動のさなかにも平静を保つこと、人心動揺の際にも心の平和を失わないこと、自分の限界を認めながらも絶えず無限に向上しようという望みを抱くこと、もっとも取るに足らないものにも満足すること、そしてより完全なものを求めて絶えず努力することーーこのようなことこそはキリスト者の聖性の基本法としてキリストご自身がその生活をもって模範を示された心構えにほかならないのです。天と地の間にあるすべての緊張は、このような人のうちに要約されているのです。

追伸

L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)、吉田聖・吉田雅雄共訳、『希望に生きる(living in hope)』、エンデルレ書店、昭和48年、p.45-51

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