希望に生きる(living in hope)6

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2021年8月21日

第二章 キリスト教における希望 1 希望をもって考える 1/3

終りこそ本当の始めなのです。熱心に祈りながら黙想すると、人間は自分の人生の中核をなす意義に注意を集中し、ばらばらで浅薄で不安な日常生活を片づけ、人生の大切な経験である孤独や希望、恐怖や歓喜、幸福そして愛と友情への願望といったものが現れるようにします。自己の奥深くはいり込むということは全人格に影響を及ぼすような体験です。ここで関心があるのはこれらの基本的な事実についての考えを性急に描写することではなく、まさにそれらに直面することです。それは日常生活の喧騒の下に埋もれてしまっている人間存在の基本的な体験を魂の奥底から再び呼び起こします。そして現実との本当の関係に対して自由になるように努力します。あらゆる学説や一般に承認された見解やまた教義以上に、それは人生の意義を新たに一瞥するのです。

熱心に祈りながら黙想するとき、究極的には天与のものでありまた人間的なものである希望の根拠を思い出すのは、まさにこのように神秘に対して率直な関心をもっているときです。キリスト教的な生活は希望が身を結んだものです。それは本質的に未来に関するもので、未来を想見しながら、未知の世界へ出発することでもあります。キリストはわたしたちの眼前で絶対未来の神秘におはいりになりました。希望のうちに待つということは絶対必要な要素です。それはキリスト者だけが自分の信仰の本当の内容を一瞥できる基本的で個人的な生活態度です。

新約のメッセージの本質はキリストにおいて天国という全く新しい存在の次元が開かれたということを告げ知らせることです。この天国は神の子らのうちに、またイエズス・キリストの兄弟姉妹のうちに成長し熟していくのです。その時以来人間はもはや自分が地上に存在しているという単なる事実によって理解されることはできなくなりました。人間の生活は意図的に天国へ向けられています。天国は手近にあるがまだこれから到来する状態なのです。その間に起こること、すなわち人類史とわたしたちの各人の生涯の大部分を構成している暗中模索は全て単なる「誕生」に過ぎないものです。人間が天国にはいるときに初めて宇宙が本当に存在し始めます。したがってもっとも厳密な意味では、わたしたちはまだ生きていないことになります。わたしたちはまだ本質的なものを見ることも悟ることもできないでいるのです。生命はまだそこにはありません。それは希望という形でわたしたちに近づきつつあります。希望の神学の具体的な諸前提を熟考するということは、あらゆるキリスト教思想に固有のダイナミズムを見つけることに他なりません。このように希望について初めて熟考する際には、希望におけるキリスト教的な考え方のいくつかの条件について別に系統立てずに言及するにとどまると思います。

まず第一に人間は問いかけることができます。人間が単に生存するという狭い範囲を越えることができるようになるには、自分の個人的な生活がいかに断片的であるか、また自分の思考がいかに脆弱であるかを、あらためて体験するように繰返して努力しなければなりません。人間はいかに明敏で予測や評価ができても、宇宙に神秘的にみなぎっているものの意義について何も知らせることができないということを体験的に悟らねばなりません。本当に重要なのは、「予測することができないもの」であり、「遠くかけ離れたもの」であり、得がたいものです。答を求めるとき人間は自分を「一時的なものを超越したもの」にし、希望のうちに人格的なできごとです。さらにそれには不確実さと危険が含まれています。人格的に考えていることを実際に行うことによって、希望の神に出合いに行こうと努力することは、新しくて驚異的なもの、しかもユニークで極端なもののうちに永遠に自己発見をするひとつのプロセスです。人間は本当の「未知の国」を凝視するのです。人間の出す答は手に入れるということではなくて、手に入れるためのプロセスであり、また旅なのです。

神秘についてキリスト教的に黙想する際の根本的な特徴がここにはっきりと示されています。観想的な洞察は人格的な体験からつなぎ合わせてできるものではありませんし、また決して教えられることも、伝達されることもできません。つまり、それは霊魂の与えるもので、もっとも重要なものです。それは希望によって保証された約束の一部分と関係があるのではなく、約束全体とその独特な点に関係があるのです。それは何も証明しませんが、知られないものに自らを開示するのです。観想的な洞察をすることによって、人間は世の中のもっとも些細な物やできごとにおいても、何か本質的に完成されたものを体験します。ですから信心深い目で見つめると、そこには霊的生活を送っている人すべてによく知られているあの神の領域が展開します。それは危険と冒険の領域であり、常に新しい初めと変化の領域であり、偏見のない領域であり、深さと希望の領域です。それは不安定な神聖の領域です。創造的なものはいつも現実のまさにその縁にあります。自分の魂を放棄しない人は誰でも自分の魂を得ることも神に渡されることもできません。希望のうちに黙想や観想をするということは、現在おそらくもっともキリスト教的な義務でありましょう。特に思想と感想においてわたしたちは表面的に二元的なものから「一致したもの」をつくり出さなければなりません。つまりこの世界の中にある意味深い一致を見つけなければなりません。そして事物のうちにある変容力の深みへとますます深くはいり込んで行かねばなりません。その事物の変容力の深みこそは神と呼ばれているものなのです。

キリスト者の黙想から生まれる信心深い問いかけは絶えず「なぜ」と「わたし」という人間の言葉のうちでもっとも宿命的なふたつの言葉を含む文形となります。(もちろんこれらふたつの言葉の派生語も含まれます。)「なぜわたしは無理やり存在させられるようになったのですか。なぜわたしは生涯かけて築き上げたものや努力して成し遂げたもの、また愛するようになったものすべてを結局奪われてしまうのですか。なぜ神はそれほど多くの苦しみを黙認しておられるのですか。なぜ神はわれわれがまさに神をもっとも必要とするときに援助の手を差し伸べてはくださらないのですか。なぜわたしたちは愛する人々が悲しみと絶望そして不安と恐怖の波におそらく永久に翻弄されつづけるのを目にしなければならないのですか。……このような人生に見込みなどあるのでしょうか。このような屈辱を受けているのは私たちが一体どんな神の手中にいるからなのでしょうか。」

このような疑問がつぎからつぎへと生じては心を動揺させ、はじめは確信していたことをもおぼつかないものにしてしまいます。こういう疑問は非常にしつこく迫ってきますので信仰全体がぐらぐらと動揺しだし、信じ続けるのはばからしいというような気がしてくるわけです。しかしこのように困惑し疑いを抱いて尋ねたり探究したりという苦い経験は神秘について黙想するための第一条件であり、また希望をもって考えるための第一条件でもあります。疑問を抱き問いかける必要があるということこそは神によって選ばれたことの印であり、また同時に恵みであり務めでもあるのです。それはあたかも理解しがたいがありふれた力である人間の運命の一部であるかのように、わたしたちに押しかかってきます。それは潜在意識の奥底から生じるのです。それはわたしたちが自由に受け入れている愛や霊の必要とするもの、それにまた衝動のようなものです。一度それに気づいたらそれはわたしたちを執拗にまた思うままに動かします。したがって本質的なことに関しては解答可能なものでも一回限りで解決されるものは何もないということを悟るのは人間らしいことなのです。疑問を抱くということは可能性があるということなのです。キリスト教思想家はそれぞれの疑問に解答を与えることに自らを賭けなければなりません。しかしその時でさえかれには自分の出した答が正しいかどうかわからないのです。かれはいつも無言のままつぎのような祈りを続けるのです。「主よ、わたしは信じます。わたしの信仰の弱さを助けてください。」

このことでわたしたちは希望をもって考えるということの第二の根本的な前提、つまり沈黙できる能力という点にすでに話を進めているわけです。キリスト者の黙想の対象である啓示は完全無欠な体系なのではありません。啓示が行なわれるとき、それが歴史の一部となるのです。それは神とともにいる「人間の歴史」であり、キリストにおいて明らかになるにつれ人間とともにおられる「神の歴史」になるのです。またわたしたちはつぎのこともよく考えなければなりません。それは、神はわたしたちが希望のうちに神に向かって覚悟を決めてつぎの一歩を進むことができるように十分に啓示をお与えくださったということです。さらにまた神の光はわたしたちのために輝き続けると希望しながら暗闇へ覚悟してつぎの一歩を進むことができるように十分に啓示をお与えくださったということです。神はわたしたちが天国に行くのに役立つすべてのことを過不足無く啓示してくださったのです。啓示は多くの問題に全然答えていません。神は十字架上の死に至るまでこの上ない愛を示しておられるだけです。この自己を犠牲としてささげる愛こそは神がご自分の姿としてお与えくださった最後の証明なのです。そしてこれは神がいまだかつて啓示されたこともなく、またおそらく将来も決して啓示されないものの啓示なのです。あいにく啓示が答えてくれない諸問題こそ、まさにわたしたちをたびたびもっともひどく苦しめ悩ますものなのです。たとえば「苦しみ」の問題ですが、聖書はこれについて理論的には論じていませんが、ヨブ記は苦しみに直面したとき人間は沈黙してしまうということを表した最高のものです。

追伸

L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)、吉田聖・吉田雅雄共訳、『希望に生きる(living in hope)』、エンデルレ書店、昭和48年、p.35-41

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