希望に生きる(living in hope)5

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年12月22日

第一章 未来に向かって 4 復活はいつ起こるか

どんな運命がこの世界を待ち受けているのでしょうか。まず基本的な事柄であるキリストの復活から始めることにしましょう。キリストは復活されたのです。わたしたちの信仰が教えているように、キリストは人間的な存在がもっている限界を克服なさったのです。人間の本当の姿はキリストにおいて明らかにされたのです。したがって、もしキリスト者として未来について語りたいと思うなら、復活されたキリストについて考察することから始めなければなりません。人間の完成される存在様式はキリストのうちに見られます。こういった目的のため(つまり復活されたキリストを考察するために)、復活のふたつの面を区別したいと思います。そうは言うものの、これらのふたつの面は、まったく同一事実の両側面に過ぎないのです。

第一の面は黄泉(よみ)の国に下ることです。救い主イエズス・キリストの死以前には、天国は存在しませんでした。ヘブライ人への手紙には、「聖所への道はまだ開かれていなかった。」とあります。キリストの死が、宇宙の壁を打ちこわしたのです。宇宙はふたたび「神の臨在の場」となったのです。キリストは宇宙のいたるところに存在しておられます。こうしてそれまで宇宙に捕われ閉じ込められたまま生きていかなければならなかった人々のためにも、神の光が輝き始めたのです。すでに指摘しましたように、死において人間はこの時間―空間という三次元的世界から脱出し、全宇宙に広がり、汎宇宙的な存在になります。その時、人間は全自然界を発生させる宇宙の本質的な領域、すなわち「宇宙の中核」にはいるのです。キリストは以前の時代の人々が死んではいったのが宇宙の現実の奥底である、この本質的領域でした。死によって世界のこの奥底にはいったあらゆる人間とともに、世界の人々の熱望は強まり、そしてついには救いを求めるただひとつの哀願となり、ローマ人への手紙にも見られるように被造物は「陣痛の苦しみ」にあえいでいたのです。キリストがご自分の死において全宇宙の現実にはいられたとき、キリスト以前の時代の人々はみな一瞬にしてキリストだとわかったのです。すべては光となりました。知識の光、自由の光となりました。数十億の人々が自分たちの生を瞬時に決するような選択の場に直面したのです。それから神に向かって世界の爆発が起こりました。大地が揺れ動いたとしても驚くには及びません。すべての人を救うことができるようにキリストは死ななければならず、またすでに死んで宇宙にはいったすべての人のために現存するように、キリストは世界のこの奥底にもはいられたのです。この時幾億年にもわたるある運動は目的に達しました。宇宙はもはや以前の宇宙とは同じではありません。これからはすべての深みにおいて、すべての本質的なものにおいて、またすべての奥底においてキリストご自身が生きておられるのです。これからはあらゆる死も埋葬もキリストへの入り口となるのです。宇宙は神聖なものになりました。このことこそは「キリストは地獄すなわち黄泉に降られた」という信仰個条の本当の意味なのですが、それもたびたび誤解されています。(つまりこの表現は、実はことばの本来の意味での地獄を意味しているのではなくて、宇宙のもっとも深い中心、宇宙のふところを意味しているのです。)キリストはこのように宇宙の中心になられ、人間の心のすべての衝動のもっとも深い中心となられました。

第二の面は復活です。ここで不可解なことが起きました。復活されたキリストのご出現の話を注意深く読みますと、最初は当惑してしまいます。キリストにはもはや時間と空間の限界がないのです。突然現わされたり、急に弟子たちと一緒に歩かれたかと思うとふっと姿を消されたり、あるいは戸を閉めたままの部屋にはいってこられたりします。新しい存在様式が生まれたのです。使徒パウロは、キリストは「霊」であると言っています。ここでのこの表現は、肉体との区別を意味しているのではありません。それは限界のない生命へ引き上げられたことを意味しています。キリストはご自分の地上での生命を取り、それを宇宙を包含する新しい実在へと変えられました。キリストの復活は、たとえばわたしたちの人間的存在がもっている限界に戻されたラザロの復活の場合のように、ただ生前の生活に戻ることではありませんでした。使徒たちへの最初のしるしは「空の墓」でした。基本的にはこれはキリストが地上での肉体をご自分と一緒にもっていかれたことを意味しています。キリストは拷問を受けたご自分のみじめな肉体をお見捨てになりませんでした。打ちのめされたかれの人間としての顔は、永遠に神のみ顔として残るのです。それはわたしたちの人間のいのちに関して言われ得る究極的でしかももっとも深遠なことがらです。人間の実在は宇宙のもっとも高い天体の上へとあがり、神聖な三位一体の生命のうちにすでにはいったのです。幾億年にわたる歴史のうちに人間において一点に集中した宇宙は、想像もできないほど昔にそのふところから生まれた人間へ戻ったのです。復活されたキリストは新しい生命の初穂であり、初めであり、根底なのです。キリストとともに宇宙は決定的な未来へ出発するのです。このことからわたしたちは考察してきた最初のテーマへ戻ることになります。

人間は復活するでしょう。ところで、復活した人間というのはどういうものなのでしょうか。人間の復活の本質的定義に近づけるような別の予備的な質問でこの問題を始めることにしましょう。(それはただの付随的なものとしか見えないかも知れませんが…。)「いつ」死からの復活が起こるのでしょうか。これから概略を申し述べようとしている考えは、おそらく冒険的に見えるかも知れませんが、考察のためのひとつの根拠として提起したいと思います。

一方では、人間の死は肉体と霊魂の分離であるという考え方に慣れきっています。けれどもこれまで考察してきたことからすれば、果たしてこのような分離は可能なのでしょうか。霊魂はまさにその本質からして物質に関係があるということに注目しました。霊魂は肉体なしでは存在することができません。人間はひとつの存在なのです。肉体のない霊魂があるということは矛盾したことでしょう。したがって復活は死を迎えるときに、直ちに起きなければならないのです。肉体から分離した霊魂というものはありません。あるのはただ肉体と霊魂がひとつになった人間だけです。このことは考慮されねばならない第一点です。

他方、啓示は人間の死からの復活が終末論的なできごとであると繰り返して強調しています。それは最後の審判の日にキリストの再臨と同時に起こります。したがって、人間の復活は世の終りに起こるものとしか理解できません。ここでわたしたちは明らかにアポリオリ、すなわち思考上の行き詰まりに直面しています。

カール・ラーナーはつぎのような解決を示唆しました。つまり、死において人間の霊魂は「非肉体的なもの」になるのではなく、全宇宙的な関係にはいり、宇宙のいたるところに存在するというのです。かれの見解によれば、肉体を離れるとき霊魂は物質と新しい関係にはいり、宇宙の物質的な実在に遍在するようになります。わたしはこの点においてカール・ラーナーの深遠な洞察を認め受け入れますが、どうしてこうした中途半端な解明で立ち止まらねばならないのでしょうか。どうして復活は死のときに起こらないのでしょうか。復活はまさに死のときに起こるが、それにもかかわらず終末論的なできごとであると、もっとラディカルな解答ができるはずです。これは外見上の矛盾に過ぎないのです。復活した人間は自分の住処として変容した宇宙を必要とします。したがって世の終りに変容するということは、死のときにすでに起こった復活を最終的に完成させることを意味します。したがって復活はまさに死のときに起こるものであり、または、人間の霊魂は肉体なしには決して存在しないということ、すなわち不滅性と復活は実際は全く同一のものであるということを意味しているのです。

さてここで中心的な問題を提起することができると思います。復活した人間とは一体どういうものなのでしょうか。復活した人間が神と永遠に結ばれた世界を完全に表現するものであるということは、ただ啓示から、知っているだけです。kの観点からは少なくとも復活した人間が、どういうものでないかを言うことはできます。

復活した人間はどんな苦痛も感じないでしょう。復活はまず苦痛からの解放、すなわちわたしたちが全存在をあげて切望している状態を意味しています。啓示はこのことを強調しています。神の選民は及ぶ限りの慰めを受けます。けれども聖書では、苦痛がないということは単に人間に与えられた無限の賜物の表面に過ぎません。神は人間の存在に完全にはいり込みました。したがってそのもっとも純粋な本質になります。このことによって日のように激しい実在が生まれます。それはますます成長して神になり、人間存在がもつ弱さの危険をすべて超越したものになることでしょう。

人間はもう神を知らないものではなくなるでしょう。人間は神とじかに接触した経験をあらわすものとなるでしょう。わたしたちは神のことばを「聴き」、神の甘美さを「味わい」、そして神に「触れる」ことでしょう。神は人間の生活のなかに完全に現存しておられます。これは何を意味するのでしょうか。神はどこにでも存在しておられるので、そのことはある意味では人間もまた「無限のもの」であるだろうということを意味しています。このことから、復活した人間の第三の特徴が明らかになります。

人間にはもはや狭い制限範囲というものはなくなります。霊的なものはすべてあふれて感覚の領域にはいり、また感覚もあふれて霊の領域にはいります。見てもすぐわかり、触れてもすぐわかり、聞いてもすぐわかるようになるでしょう。空間という制限もなくなるでしょう。人間は自分が愛を感じる所や居たいと思う所、またそこにいたら幸せを感じるような所には、同時にどこにでも存在するようになるでしょう。したがって復活した状態にある人間の生命は完全に「霊的なもの」となることでしょう。しかしその霊性はわたしたちの感覚の現世的な特性に由来する優しさと楽しさも同時に有しています。一面の花畑を眺めたり、愛する人と抱き合ったり、また美しい声を聞いたりすることが与えてくれるものがあります。それらを永遠に奪われてしましたいなどと一体だれが本気で言えるのでしょうか。否、誰もそう言えるものはいないはずです。復活のメッセージはキリスト教が人類に示したすべての事柄のうちでもっとも人間的なものです。

人間は幾億年にわたるプロセスにおいて人間を生み出した宇宙の完成であり、また宇宙の「総計」です。もっぱら神から生命を得た人間は、宇宙の中心となり、絶対者の住い、聖性の器となります。世界はこのような状態が起こるように創造されたのです。人間は復活の際に正真正銘の姿で現われるのです。これが世界創造、宇宙の発生の中心的なできごとです。世界はすでに贖われています。それはわたしたちの自由の特権なのですが、自分の存在を究極的に完成させるかさせないかは、わたしたちに自由にゆだねられています。わたしたちは自由に決断することによってのみ「永遠のもの」になれるのです。キリストに賛成の決断をすることにより、またキリストとの愛の一致において一緒に存在することにより、わたしたちの存在のうちに一致をとげて、すなわち永遠の成長をとげて神になるという栄光に達するのです。そのときこそわたしたちは本当に人間になるのです。

追伸

L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)、吉田聖・吉田雅雄共訳、『希望に生きる(living in hope)』、エンデルレ書店、昭和48年、p.27-34

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