花川マリア院の馬小屋の飾り

希望に生きる(living in hope)4

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年12月17日

第一章 未来に向かって 3 死、すなわち決心の時(2)

死のときに起こることを象徴的に表わすものとして、すぐに思いつくのは、誕生のありさまです。誕生のとき胎児はその母親の胎内から無理やり追い出されるのです。自分を護ってくれ、自分がよく知っており、自分にとっては大切なものから去らなければなりません。赤子は外部にさらされ、完全な破滅に瀕しているのです。同時に赤子の前には広々とした新しい世界が開けています。光や色や意味、そして人間の仲間や愛の世界との新しい関係が開けているのです。死を迎えるときの人間にも何かこれと似たことが起こります。かれは世界と自分の有していた以前の関係の狭い限界から無理やり移されるのです。同時にかれは世界との新しくて本質的な関係をもつのです。すなわちそれはかれを宇宙全体とつなぐような関係です。したがって人間は肉体的な実在を無理やり奪われることにより無にかえられるという意味で本当に死ぬのです。それと同時にかれは世界のまさに根底に投げ込まれて、現実と広大無辺な関係を、つまり汎宇宙的存在を獲得するのです。人間が死を迎えたときに下る世界のこの地底は、本質的にキリストに対しては開かれたものであり、存在するすべてのものの根底には「透明なもの」なのです。人間は死を迎えるときつぎのようなことにも直面します。すなわちかれがいつも強く望んでいたものに直面するのです。知っている限りの推測をし、愛をこめて望み抱きしめたものすべてのうちで、ただ知っているに過ぎないのに得ようと努めて得られなかったものに直面するのです。なかでも、ここでかれは「世界の神」と直面します。これは人間が最後の決心をする形而上的な場なのです。キリストは人間が死ぬときその人の前に立たれます。キリストが愛をこめてお救いくださるしぐさをなさって、その人をご自分のもとにお召しになるのがはっきり見られるのです。人間は決心するだけでいいのです。「審判」がどうなるかはその人次第です。キリストはいつも同じように愛をもってお召しになりながら、また与えようと待ちかまえてそこにおられます。たとえ人間がキリストに逆らうような決心をしても、キリストの愛には別に影響しません。しかしキリストの愛は人間がそれを拒絶するので、人間を永久に枯らしてしまうでしょう。もし人間がキリストに従うような決心をすれば、キリストの全く同じ愛は、その人にとってまた限りない幸福における究極の完成となり、永遠の光となることでしょう。

神は狭量な方ではありません。寛大な方です。どんな人もただ偶然に永遠の罰を受けるようなことはありません。たとえば、思いがけなく永遠に召されるとか、あるいは一生涯中決して神を正しく知ることにならなかったとか、そういった理由で永遠に罰せられることはないのです。また、愛とは何であるかが少しも分からないような家庭に生まれたために、神がなんであるかを少しも理解することができなかったとか、あるいは人に憎まれ拒絶され、誤った判断をされ心まで傷つけられたので、神を含めたすべてのものに反感を抱くようになったとか、そういった理由では永遠の罰を受けることはないのです。しかし逆に言えば、誰もつぎのような理由からだけでは永遠の救いを手にすることはできません。たとえば、自分には信心深い両親がいたとか、自分がしたくてしょうがなかった悪事をブルジョア的偏見が抑制させたとか、あるいは数十億の人たちとは異なり、折にふれて何かキリストについて耳にすることができる世界のある場所で幸運にも成長したとか、そういった理由で永遠の救いを手にすることはできないのです。また、たまたま自分が快活な性質なので愛されるとはどういうことかを知って、キリストも自分を愛してくださることを信じるのは難しくないとわかったとか、そういった理由ではまず永遠の救いを手に入れることはできないのです。

もし自分の全存在をかけて十分に、またはっきりと、よく考えたうえで神に逆らうような決心をしなかったならば、誰も永遠の罰を受けることはありません。しかし、もし誠心誠意神を受け入れなかったならば神に嘉されることはありません。どこで生まれたのかとか、いつ死んだのかとか、どんな気質であったのかとかいったことは問題になりません。誰にでもキリストに賛成か反対か、つまりキリストに従うか逆らうかを十分に、しかもはっきりと決心する機会があります。よく考えてみるために新しい根拠としてここに申し上げる見通しによれば、神の裁きと全人類を救おうとされる神の意志とは、その間に完全な調和が見られるような関係にあることがすぐにわかります。よみがえられたキリストに出会う機会、つまりキリストを人格的に知るようになる機会は誰にでも少なくとも一度はあります。誰にでもこの機会はあるのです。まだキリストのことを耳にしたことがない数百万の異教徒でさえ、またわたしたちが説いてきた退屈で非現実的な神を、本当に理解も出来ないし愛するようにもなれないような「異教徒になったキリスト者」でさえ、この機会はあるのです。また他の面の諸能力は全く正常に発達して現代生活の複雑な仕組みでも非常に首尾よく処理することができても、宗教的および道徳的観点から考えると子供の域を脱していないような人たちでさえ、さらにはどんなものでも決して正しく理解することができないような低能で精神に欠陥のある人たちでさえ、また洗礼を受けずに死んでいく死産児や赤子、そして最後にあまりにも力なくて全を行うことができず、心は冷え切って虚ろになったわたしたちでさえも、みなキリストと全く人格的に出会うことで救いを得る機会があるのです。人間の死が最後の決心をするときであるという考えに対して、次のような反論がよくなされます。つまり、「もし死を迎えるときに決心をする機会が与えられるならば、なぜわたしたちは急いで今からキリスト教的な生活を始めなければならないのであろうか。」という反論です。これは反論でしょうか。いいえ、決してそうではありません。というのは、わたしたちが正しい決断をするであろうということを一体何が、また誰が保証できるのでしょうか。否、何も、また誰もそれを保証できるものはないのです。この最後の決心の成り行きは、本人次第です。だからこそ、今ここで回心する以外に、回心したいという自分の願いが本当であるかどうかを決める基準はないのです。将来こうありたいと思うこと、それを今から始めなければなりません。死を迎えるときにする最後の大決心のために、生涯中何回も小さな決心をすることによって訓練し鍛え上げなければならないのです。もし死を迎えるときに回心したい真面目に望むなら、回心しなければなりません。しかもいますぐ回心しなければなりません。それをあと回しにするということは、どんな理由があるにせよ偽りながら生きていることになります。とにかくすべてのことを最後の決心までうっちゃっておきながら、絶えず無頓着に生きることは全くできないのです。死を迎えるときに一生の性癖をくるりと変えられると誰が保証できるでしょうか。否、誰も保障できはしません。死を迎えるときが決心をする最後の機会であるという考えは、救いに関してわたしたちの警戒心を少しも弱めるものではないのです。

これまで申し上げた仮説は、神学上の諸問題に簡潔で人間味のある解決を与えてくれます。ここでは「煉獄」の問題にだけ言及したいと思います。これまで申し上げた仮説の観点から考えれば、キリストに向かってわたしたちが最後の決心をする時である「死」は、同時にわたしたちの「煉獄」なのです。浄めの場は、哀れな、嘆き悲しむ人々が神に罰せられるようなある種の拷問部屋や宇宙の収容所なのではありません。むしろ「煉獄」はキリストとの出合いなのです。わたしたちを究極的に浄める「キリストの愛の眼差しの火」を耐え忍ばねばならないような、キリストとの出合いなのです。愛に満ち恵み豊かなキリストはご自分に近づく人を眺めておられます。しかしその眼差しは人間の魂のもっとも秘めやかな、もっとも奥深いところに深い感銘を与えるのです。炎のようなキリストの眼差しのうちに神に出会うということは確かにわたしたちの愛する能力を最高度に成就させることです。しかしそれは同時にわたしたちが受ける最も恐ろしい苦しみをも意味しています。このような見通しによれば、煉獄とは死のときにキリストと出会う際の瞬間的なできごとである「キリストの愛の火を経験すること」を意味するものでありましょう。この出合いにおいて人間の実在の内奥から神への愛が突然勢いよく出てきます。神への愛がそのようにして生まれるので、それは言わばわたしたちの利己主義が沈殿槽をなしているところを突き通してしまわなければならないのです。愛をもって人間に近寄ってこられるキリストのみまえに、人間はすべてをさらけ出さねばならないのです。利己主義がもたらした層の質が硬ければ硬いほど、また処理しにくければしにくいほど、神の愛の爆発はそれだけ苦しいものとなり、さらにまたキリストとの出合いによってそれだけ浄められるのです。したがって死を迎えるとき、各人はそれぞれの強度が異なる浄めの過程を個人的に経験するでしょう。ですから「煉獄」で費やされる時間の長さに相違があるかわりに、清めの強度に差があることでしょう。

わたしが申し上げた仮説は、おそらく「天国」のことをもっと深く考える方法をも示唆してくれると思います。このように愛をもってキリストに近づくことにおいて神と出会うという恐怖を経験して生きることにより、人間は自分の限りある存在を危うくするような神に関することがらを、きっぱりと捨て去るのです。危険はそれでもうなくなります。こうして人間はキリストの知識と愛のうちにはいることができるのです。これは、もちろん天国での状態と同じものです。ですから天国とは死においてキリストを選び取ったことが展開して状態として存在するようになったものなのです。一方煉獄とは、キリストと永久にしかも静かな幸福のうちに一緒にいることができるようにするところなのです。

追伸

L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)、吉田聖・吉田雅雄共訳、『希望に生きる(living in hope)』、エンデルレ書店、昭和48年、p.20-26

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