希望に生きる(living in hope)3

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年12月17日

第一章 未来に向かって 3 死、すなわち決心の時(1)

人間は死を迎えるときはじめて完全に人格的な行動をとることができるようになります。したがって死とは、人間が自分の永遠の運命を完全に自覚し、自由に決める瞬間なのです。多少学問的なこの所説はつぎのような考えを意味するはずです。すなわち、死の瞬間においてのみ人間は自分の実存の不思議な姿を無視することができます。死においてのみ人間はその全存在をあげて、キリストにまみえるため、またかれに関して最後の決心をするために存在論的にみて十分強くなり、また精神の集中もできるのです。したがってこの見解によれば、死の瞬間にわたしたちは決心をする機会をもたなければならないのです。より正確に言えば、死のときにのみはじめて絶対的で完全に個人的な決心をすることができるのです。したがってこの仮説によれば、どんな人にでも死の時には自分の力で、はっきりとまた全く自由に、キリストについて決心することができるということになります。

「死の時に」というこの表現を正しく理解するかどうかに多くのことがかかっています。これは死以前の状態の問題ではありません。臨終のもだえのとき肉体的な苦痛や精神的な重苦しさを感じるような状態で、誰かが自分の生涯中はじめて個人的な行為をするということは、まったく想像もつかないことです。他方、それはまた死後の状態の問題でもありません。

死後わたしたちの運命は永久に固定されます。死においてそういうふうに終局を迎えるので、それをもはや変更することは絶対できません。したがってそれは、まさに「死の瞬間」の問題なのです。

霊魂(すなわち前節で考察したあの内的実在)が肉体を離れるとき、突然霊魂は自分が純粋に霊的であることに気づき、すっかり明るく光り輝いたものになるのです。そしてただちに霊魂は、造られた霊魂が知ることも理解することもできるということがわかるのです。その霊魂は自分の全生命をただひとつの統一体として理解しています。そして自己のうちに神の招きと導きを感知するのです。さらにその霊魂は宇宙の究極の神秘としてよみがえったキリストによって、霊魂全体に照らし出された全宇宙に直面するのです。なぜならば、エペソ人への手紙が証明しているように、主は復活と焦点によって万物を満たしておられるからです。ですから人間は死において自由であり、十分な知識をもって最後の決心をすることができるのです。この決心は人間の生命とキリストとの、最高でしかももっとも確実な出会いを意味しています。今や人間にとってキリストを素通りすることはできないのです。そしてこのように死の時に決心されたことはそのまま永久に残るのです。なぜならば人間はこれを決心することに自己のすべてを注ぎ込むからです。ただ一度だけ決心するからです。そして人間は自分が決心した通りに永久に生きるのです。来世では、かれが決心する瞬間に生じることが実際に展開するにすぎません。

死に至って人間は初めて完全に人間になるのです。人間は、将来自分が何になるかを絶えず憧れながら期待して生きていきますが、いかなる時点でも自分に追いつくことは決してできません。人間は内的軋轢のうちに生きています。そのためにかれがもっとも誠実であることがらを成し遂げるよう命令を受けても、それを成し遂げられないのです。人間の生命は生きている間は実を結ぶことはできません。その本質的な実在はいつもかれの将来にあります。さらに人間は、ことばの本来の意味において「存在している」と言うことはまだできません。ただ生成の連続的なプロセスにあるに過ぎないのです。したがって人間もまた世界において未知の者のままであり、さらに物事や人々そして出来事に関して未知の者のままです。要するにかれは自分を知りませんし、また知らないままなのです。かれは存在するために自分を未来へ投げ込むのです。したがってかれはただ過ぎていく時を言わばかすめて通っているだけです。ただ自分の生命に触れているだけで、実際にかれは生きていないのです。自分の生命に十分な機会を与えることができません。つまり連続した現在において彼は本質的には自分になれないのです。かれがもはや同じ断片化された未来へ入らなくなる時、その時こそはじめて現在の自分を完成させることができるのです。その時こそかれの閉じ込められていた生命の水が突然堰を切って流れ出し、ついにかれは存在するのです。かれはもはや山間を「突進する」急流のようにではなく、世界のすばらしさを残らず映し出す、澄み切った深い、静かな山の湖水のように生きるのです。そのような瞬間は死の時にしかやって来ることができません。なぜならば、そのときだけは同じ方向へ、すなわち時の空虚な広がりへ一歩も進まないからです。死のときに、絶え間ない現在からなっている生命が始まるのです。死のときにのみ人間は現在の自分を完全に統一するのです。かれはあらゆる方面で自分の生命を取り巻く制限から逃れ、世界の深い次元へ、すなわち宇宙のまさに中心にはいるのです。

追伸

L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)、吉田聖・吉田雅雄共訳、『希望に生きる(living in hope)』、エンデルレ書店、昭和48年、p.17-20

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