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希望に生きる(living in hope)2

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年7月8日

L・ボロシュ著(Ladislaus Boros)
  第一章 未来に向かって
   2 人間には霊魂があるか

あらゆる人々の中でひとりの司祭がこの質問をするということ、あるいは敢えてそうするということは、おそらく注目すべきことでありましょう。しかしわたしたちは一風変わった時代に生きています。わたしたちの信仰はあらゆる種類の問題を、まさにその根底から新たによく考えて解決するように強いています。ところで、今取り上げている問題はつぎのように言葉をかえて表現すべきではないかと思います。すなわち「わたしにとって『外面』と『内面』、つまり『外』と『内』があるということは何を意味するのであろうか。」「この世界でわたしはどのようにして人間的な境遇を経験するのであろうか。」「陳腐で窮屈な面があると同時に未知のもの、未経験のものへの希望と刺激がある人間的な境遇は、わたしにどういう影響を与えるのであろうか。」

わたしたちを束縛する限界、わたしたちの気のりのしないことや制限された生活を絶えず破ってくれる何かが---すなわち希望とか、何か高潔なものを求める衝動、そして期待---といったものが自分のうちにあるということは、日々の経験が教えてくれます。しかし同時に狭苦しく制限された境遇に閉じ込められるということも、わたしたちの定めなのです。わたしたちの内奥には、それが何だか解らず言い表わすこともできず、適当な言葉さえも見つけることができないものがあります。哲学はわたしたちの存在の緊張状態(つまり「無限なるものに開放されていること」と「直接前面にでていて狭苦しく制限されたところで束縛された気持がすること」との間にある緊張状態)を説明しようと努力してきました。哲学は人間を霊魂と肉体から成りたっているものであると言っています。このことはわたしたちが経験しているひどい不調和を説明するはずでした。それは人間の神秘を概念的に把握しようとしたひとつの試みでした。そこで、本当の問題はつぎのように提起すべきでしょう。すなわち「自分が制限を受けるものであり、また制限を受けないものであるということを、同時に知っている事実の背後には、いったい何があるのか。」と。

この問題をこれから新たによく考え解決していこうとするなら、まず誰にでも容易に受け入れられ理解できる、人間の存在のもっとも単純な事実に立ち戻らねばならないと思います。試みに、生命に固有のダイナミズムに完全に従って誕生から死までその人生を生き抜いた人のことを想像してみることにしましょう。このような生命にはどういうことが起きるのでしょうか。そのような生命には二重の線の跡をたどることができます。

第一に、生命は一種の爆発的な「拡大・発展」を含んでいます。ここではこの表現は「肉体」にだけではなく、生命が『外に』向けられている限りの人間全体にも言及しています。しかしこの『外に』とはどういう意味なのでしょうか。まず第一に、それは生物学的諸能力の成長、有機的組織の発展と成熟、諸機能の分化です。またそれは知識の増大、友情への目覚め、視野の拡大、世界と自己の支配、そして愛なのです。生命は「成長」して世界となるのです。しかし人間がこの世界にあって自分の仕事に、すなわち外的事物に自分を投入するにつれて、世界はその人の力を次第に摩滅させ始めます。青年らしいエラン(熱意)は弱くなり、生命のエネルギーも少なくなっていきます。この世界での偶然の成功や自分の創造的活動にもかかわらず、人間は自分が夢見たり期待したりしたことを実際にはなしとげなかったということを、恐ろしいほどはっきりとわかるのです。人間は本当に重要なものに失敗したのです。自分の仕事や影響力、誠実さや友情、そして愛に失敗したのです。人間は自分に要求されたことをこなすだけの力がなかったのです。かれは孤独になり、孤独のうちに自分の失敗に直面します。そして他人の重荷となりますが、このことがおそらくもっとも耐え難いことでしょう。結局かれはつぶれてしまうのです。せっかく多大の労苦と愛をそそぎ、努力と無私無欲の精神を傾けてこの世界に築き上げていったものが、すべてかれとともに崩れ去ってしまうのです。「肉体」がかれ自身を摩滅させてしまったのです。しかしこれは、生命というものがすべてそうだということなのでしょうか。いいえ、もちろんそうではありません。

こういう外面的な崩壊を経験するうちに自分の限界に立ち向かうことによって、何か重要なことが生じます。つまり、生命がその目的を達成するために誠実に生きられるならば、「精神」は成熟するのです。あらゆる危機と困難のなかで「肉体」が次第に疲れ果てていくにつれて、何か「人格」ということばがあてはめれるようなものが築き上げられます。本当の人生においては、肉体の諸々のエネルギーは全く無駄に浪費されるのではなく、精神へと変容されるのです。失敗や挫折にもかかわらず再出発しようとし続け人の内部るでは生き生きとした中心が形成されるのです。また危険を知りどんな境遇にあっても、たとえもっとも困難な境遇にあっても、内的に成長するような利益を得ながら自分の立場を固執する人の場合も同じです。こうして徐々にしかも静かに円熟した人間が形成されるのです。何か隠された神聖なものが現われます。つまりそれは、自分の狭い限界に気づきながらも無限への道を生き、心が落ち着いているのでまわりの騒音の中でも沈黙を守ることができるような人格的な存在です。これと同じほど確実な内面性は、たいていの場合、大いに試練を受けた人生の終りになってはじめて成就されるのです。そこには大変特徴的な長所がみなぎっています。それは柔和と控え目な善意という長所です。

肉体の危機を克服することによって、またそのことによってのみ、本当の内面性が完成されます。そしてその結果として、世界はさらに「透明なもの」になります。宇宙の実在の新しい次元が展開するのです。一生の重大な日々の喚起や艱難から、心は徐々に結晶していくのです。それは無私無欲となったために、まさしく自己なのです。外面的なものが内面的生命になったのです。こうして人間は実在の中心となるのです。

ですからわたしたちの初めの問題の答えは、つぎのようでなければなりません。すなわち人間には霊魂があります。しかし同時に霊魂を自分のために整えなければなりません。そして精神的な生活をする人間になるという骨折り仕事があります。物事を通して何かを一瞥するということは、かれの使命なのです。つまり単なる特殊な知識から、換言すればあらゆる存在の現実であり、あらゆる知識の部門を超越するものである「理由の理由」からは、集めて組み立てることが全然できない何かを一瞥するということです。かれは自己の内部に憧れを維持していく責任を負っています。人間は自分の友情と愛を通じて永遠への展望が開くように生きなければならないのです。生命力が衰えれば衰えるほど、人間がすでに経験し、成し遂げ、耐え忍び、そして愛によって得たものすべてから、親切、理解、善意、正義そして慈悲をもって何か世界を明るくするものが、それだけ多く発展するのです。いな、むしろ発展すべきなのです。

ところで、「霊魂」ということばで呼び慣れている人間の内面性は、データとして単にこの世にあるものではありません。胎児のうちにさえも、何か後のより高度な発展を促すものがもちろんあります。したがってわたしたちは、それを保護しなければならないのです。しかしこのように単に存在しているだけのものも、自由によって完全に実在するようにされなければなりません。これはわたしたちが人間であるが故に直面する務めです。誰でもある時点で、この可能性をもっているに違いありません。ところでいつ、どのようにして、このことが起こるのでしょうか。「ある時点で」というのは、少なくとも死の時のことを意味します。人間はすべて「外なるもの」(肉体と呼ばれているもの)を「内なる領域」へ持ち込む機会、すなわち絶対者へ自己を打ち明ける機会を持っているはずです。

もっとも偉大なキリスト教思想家のひとり、トマス・アクィナスは、「霊魂-肉体」という図式に依然妨げられながらも、つぎのように示唆しています。かれによれば、人間はふたつの「もの」から成っているのではなく、物質と精神が単一の実体を形成するただひとつの本性をもっているだけです。すなわち物質と精神のふたつは、第三のものを構成しているのですが、それは別々には両者のいずれとも同一ではありません。人間の肉体はその霊魂の表現したものである一方、逆に言えば人間の霊魂は物質が最高度に現実化したものなのです。人間の霊魂は、まさしくその本質そのものによって必然的に肉体にはいるものであると、トマスは繰返し強調しています。肉体がなければ人間の霊魂もありません。肉体と霊魂は実体的に結合された人間の実在の本源なのです。人間はただひとつの実在であり、ふたつの実体が結合したものではありません。肉体は本質的に霊魂によって動かされています。肉体に対する霊魂の関係は、霊魂の本質に本来から属しているもので、肉体的存在というのは、霊魂のうちに根源的に含まれているものを展開したものです。逆に言えば、霊魂というのは物質のもつ「傾向」が必然的にまた本質的に熱望するものです。この哲学的な直観は、思想上で主張されたいろいろな考えのうちでおそらくもっとも重要なもののひとつでありましょう。これはまた次のことを教えてくれます。すなわち究極原理の見地から考える人は、たとえ頑固に組織系統だてられた形式や概念に制約を受けたとしても、これらの内側から逃げ出すことができ、また数世紀後に人類がようやく把握できるような諸概念をも前もって考えることができるということであります。これらのことを考察すると、つぎの「死」というテーマのためにどれほど広範囲にわたる結論が引き出せるかが、すでにわかるのです。しかしこの時点でこれらの推論をするのはまだ早すぎるでしょう。

しかしながら、要点だけですがその解答はここにすでに暗示されています。あらゆる特殊な概念上の体系とは別個に、キリスト教的ならびに世俗的自覚に基づいて言えることは、人間は数十億年の間に宇宙が進化した結果生まれたものであるということです。この人間にこそ「内面化」に努める宇宙の力が集中するのです。かれにおいて物質は絶対者を自覚するように前進することができ、こうしていつまでも永続するのです。人間は無限への際限ない緊張を有していますが、同時にこの世界から分離した脆く自己消耗する存在であり、その世界に本来備わっている一部分なのです。これが今まで霊魂と肉体と呼んできた実在なのでしょうか。もしそうなら、霊魂と肉体は実在しています。しかし結局のところ、わたしたちは全体に関してさらに考えを進めなければならないと思います。わたしたいは宇宙と密接な関係があります。わたしたちは宇宙の頂点です。わたしたちにおいて、この宇宙は神と直接の接触を持つのです。わたしたちにおいて、この宇宙は神を知り、神を愛するかもしくは神を憎むのです(これはわすれてはならないことです。)これこそは数千年もの間思想家たちが「霊魂」と呼んできた不思議な実在なのです。それは希望でもあり、また脅迫でもあるのです。

今まで考察してきたことは、あいにく余りにも哲学的でしたが、わたしたちの関心の的だったのは、今まで使い慣れてきたのと違った言葉で人間について考えることができるということを説明することだけでした。そうは言っても、ここで重要な点は、つぎのひとつのことを固守するということです。つまり、人間であるということは制限のない開放性と同時に、脅迫的な狭隘さと締めつけられた部分を包含しているということです。このことを示すために使う言葉や表現はたいして重要ではありません。重要なのは、ますます神に近づくことに他ならない宇宙の運動を、自分の生命のうちに持ち込むことです。しかしながら、幸か不幸かわたしたちは生命を大切にしようと決心するので、自分が死んで神のなかにはいり、そうしてわたしたちを造り出した世界を救い、世界を復活という永遠の栄光へ導くことによるほかは、それも不可能なのです。

追伸L.ボロシュ、『希望に生きる』、エンデルレ書店、昭和48年、p.9-16

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