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四旬節第4主日(2020年3月22日、A年・主日・紫)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年3月22日

第一朗読:サムエル記(サムエル上16・1b、6-7、10-13a);ダビデはイスラエルの王として油を注がれる・答唱詩編(詩編23・2-3、5-6);主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。・第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・8-14);死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ9・1-41);生まれつき目の見えない人は行って洗い、目が見えるようになって帰ってきた

四旬節第4主日の典礼は洗礼志願者のための典礼となっています。同時にすでに洗礼を受けたわたしたちも、洗礼を受けたときのことを思い出すよい機会となります。テーマは光、あるいは心の目が開かれる、見えないものが見えるようになるということです。洗礼の力は、わたしたちが暗闇から解放されて、光の子として歩む力を与えます。

ところで、いつもわたしたちには神の問いかけがなされています。それに気づくためには神のことばを聞くことが必要です。神のことばとは言うまでもなく聖書に書かれている言葉です。今日読まれた神のことばは、神の力が信じる者に働いて、心の目が開かれたことを伝えています。ヨハネによる福音では生まれつきの盲人の目が開かれるところが読まれました。イエスの「神の業がこの人に現れるためである」と言っています。これは目が見えないのは罪のためではなく、「神の業」が現れるためなのだということです。神の業とは目が見えるようになることです。しかし、現実に見えるようになっただけではなく、イエスの行ったことが自分の身に起こったということが重要なのです。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言っています。「イエスを知る」とは、イエスについての知識の問題ではなく、自分が変えられた体験をとおして知ることなのです。
この盲人が地面の土を目に塗られたというのも意味があります。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」という灰の水曜日に言われた言葉が思い起こされます。そのちりによってこの盲人は目が見えるようになりました。そのちりを洗い流すためにシロアムの池に行きました。シロアムというのは『遣わされた者』という意味ですが、父である神から遣わされた者の第一の者、初めの者としてイエスが遣わされました。そこで目が見えるようになったというのは、イエスを通してわたしたちが心の目が開かれて見えるようになるということを意味しています。この盲人はイエスをどう思うかと問われて、「あの方は預言者です」と答えます。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
わたしたちにもキリストとの出会いの体験があるはずです。自分の目が開かれた体験があるはずです。いやされた人にとって、自分の身に起こった出来事だけは決して否定できないことです。イエスに癒されたけれど、イエスを見たことがないこの人は「人の子を信じるか」と言われて、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と言います。その人をいやした人が目の前にいることを知って「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。イエスに出会って自分が変えられたのならば、わたしたちも同じようにそのことを証言せずにはいられないでしょう。
パウロの手紙でも暗闇から光へとわたしたちが変えられたことを語っています。それは洗礼によって目が見えるようにさせられたことです。サムエルも主によって目が開かれて、ダビデを選ぶ力を得ることができました。今日わたしたちは、洗礼によって与えられたこの恵みに感謝して歩んでいきましょう。

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