ブログのロゴ

受難の主日(2020年4月5日、A年・主日・赤)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年4月5日

入城の福音:マタイによる福音(マタイ21.1-11);主の名によって来られる方に、祝福があるように(10時ミサのみ行う)
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ50.4-7);わたしは顔を隠さずに、嘲りを受けた。しかし、わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と(主の僕第三の歌)
答唱詩編(詩編22.8-9、17-20、23-24);わたしの神、わたしの神、どうして私を見捨てられるのか。
第二朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2.6-11);神は、へりくだったキリストを高く上げられた
受難の朗読:マタイによる主イエス・キリストの受難(マタイ27.11-54);主イエス・キリストの受難

<入場前の福音後>
主イエスを歓呼のうちにエルサレムに迎えた群衆にならって、わたしたちもシュロの枝を高く上げ、「ホザンナ!」と叫びます。
イエスは王の衣を身に着けているわけでもなく、美しい馬に乗っているわけでもありません。
イエスは、御自分に仕える民のために命をささげる救い主として来られたのです。
わたしたちも救い主イエスをたたえながら、主の過ぎ越しの記念を行うために行きましょう。

<受難の朗読後>
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
これは40日間の断食の時の悪魔の誘惑の言葉が思い出されます。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」
これに対してイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われました。
悪魔はイエスを神から引き離す誘惑をしましたが、イエスはその誘惑を拒否しました。
十字架上の最後の苦しみの内にあっても、同じように拒否したのです。
受難朗読では数少ないイエスのことばの一つで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉を叫ばれました。
これは詩編22の冒頭のことばで「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」ということばです。
これは答唱詩編の答唱句のことばでもあります。
この言葉だけを見るとイエスは神に対して絶望しているように思えます。
しかしこの詩編の結びの言葉30節から32節、今日の答唱詩編より後の言葉ですが、それを見るとそうではないことが分かります。
「わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう。」
希望をもってイエスはこの詩編22を唱えていたのではないかと思います。

わたしたちを神から引き離そうとするものは何かという視点で考えると、自分の問題としての誘惑が見えてくるのではないかと思います。
苦しみの中にあるときに、神から離れ、人からも孤立してしまうのか、
それとも、苦しみの中で、神につながり、人とつながって生きるのか、
それはわたしたちにとって、大切な問題なのです。

そして、受難の最後の場面でイエスの復活のことが語られます。
「イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」
復活とは神との絆の完成であり、人との絆の完成です。
わたしたちが死に臨むときも、死の後にも、常にいてくださる方はイエスです。
これこそわたしたちの希望であり、いのちの源なのです。
この最も聖なる1週間をイエスの受難と死とともに歩み、わたしたちの希望であり、いのちの源であるイエスに信頼して過ごすことができるよう祈ってまいりましょう。

 カトリック札幌司教区ブログ佐藤神父のページ 受難の主日(2020年4月5日、A年 (...)

我々の会話

© Copyright・日ごとの福音・一般社団法人・2017~2020