花川マリア院の馬小屋の飾り

人生の目的(武宮雷吾師)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年12月16日

故 マテオ兄に捧ぐ

序 人生の目的あるいは人生の意義

現代は親殺し、子殺し、友人殺し、校内暴力等等でなやまされている時代である。これは何が原因か。

また現代はこの問題を解決できない時代になっている。この問題については、親も知らないし、教育においても、その根本がわかっていない。まして、子供や、学生がわからないのは当然のことである。

むしろ現代は二百カイリ問題、古古米の問題、春季闘争の問題、生産過剰の問題等等を真剣に考える時代であり、これらのことを会議と組織で解決しようとしているが、根本的なことをわかっていない。

この意義において、今こそ人生の根本問題を考えなおす時である。

一、腹がへったという言葉がある

腹がへったということから、かならず食物と消化器があることがわかるように、
  人はだれでも幸福になりたい
  いつまでも死にたくない
と願う自分の存在の事実は、永遠の幸福があり、永遠の生命がある証拠である。

ニ、盗んだ砂糖も甘い(掟と罪)

このことばを聞くと、盗んではいけないという良心の叫びが底に伏せられており、殺してはいけない、偽ってはいけない、いじわるしてはいけない等、人はだれに教えられなくても守らなければならない掟のあることがわかる。

だれでも偉くなりたい、出世したい、人に認められてもらいたい等と考えるのは正しいが、ただし、これは神の代理者としてのことである。総理大臣が偉いといわれるのは科学と経済を用いて人々のために尽くすからであり、父母が偉いといわれるのは自分のすべてを犠牲にして子供のために尽くすからであり、自分が神の代理者であることを忘れて、何かを自分のもの、自分の力、自分の名誉に帰することは罪悪である。

サタン、ルチフェルは、自分が神につくられたことを忘れ、最高の天使でありながら、神の光栄を霊的に盗んだものである。ルチフェルは、キリストは人性において自分より後から存在する者であるがゆえに、永遠の存在なる(神性をもつ)御子を無視し、キリストに従うことを望まなかった。

人間の場合。(美)盗んだ砂糖も甘いと知りつつ盗む砂糖。人間が罪を犯すのは、美の悪用であって、真理と善に一致しない感覚の美の悪用である。したがって結婚もしないで性的快楽だけを求めようとするのは、罪悪である。神は、「おまえ」という子供を育てるために、親に慰めとしてそれを与えたのであるから、人間がはじめから自分のものとして、これを横取りしてはならない。性の問題はこのことからも分かるように、親として、神からあずかった子供を育てる義務を取り除いた、快楽のみは許されない。

三、一人の人間は地球よりも重い(救霊)

自動車の運転免許の試験問題にも出たそうであるが、「地球より重い値打ちとは?」。秋空にきらめく数知れぬ星の輝きを見るとき、人はだれでも創造の神秘に触れるであろう。その天地万物を創造された神御自身が人間となられ、十字架上で御死去をとげられ、最後の一滴まで流された御血の愛の功徳によって人間の罪はあがなわれた(人間に永遠の生命に入る道を開いてくださった)。神は「わたしのために」。「あなたのために」そうなされたのである。このように生命を捨ててまで、神が先にわたしのために愛を注いでくれたほど、値打ちのある、かけがえのない自分という存在に気づくべきである(神と同等の値打ちのあるもの、正し神と同じではない)。ゆえに、御自身を捨てるほどの愛なる神、キリストに感謝と謝罪の心をもってその愛に答えること、すなわち、神たる人たるキリストが身をもって示されたように、自分を犠牲にして隣人のために尽くすこと、それが神によみせられ、神との一致における平和のうちに、永遠に生きるものとなる。つまり神の代理者なる親が損得なしに子供に尽くす行為の中に、だれから教えられたものでもなく、神からの使命に基づく愛と犠牲の姿を見ることができ、このような行為こそ神の意にかなうものであり、永遠の生命に入る使命となる。

四、1981年の意味するもの(現実)

わたしは神を信じないというかた、キリストを認めないと言うかた、あなたは石油を使ってはいませんか?。コーヒーを飲んではいませんか?今や全世界は貿易を行うにも、会議をするにも、喧嘩をするにも、国連内ばかりでなく、社会主義国家、発展途上国といえども、世界中どこでも、好むと好まざるにかかわらず、この数字(年号)を使っている。昨今のカレンダーを見ても日本の年号が姿を消し、ほとんど全部といっていいくらい、西暦年号が使われているのに気づき、あらためて驚かされた。わたしの子供のころは西暦を使うと、「ヤソ」と軽蔑され、迫害さえ受けたものであった。

日本の年号は、時の天皇の即位期間により左右される者であることは、歴史の示すとおりであり、外国では通用しない。

1981年の数字は一般に西暦紀元といわれているが、紀元前、紀元後とは何を基準にしているのだろうか?。これはキリストを中心にしているのである。つまりキリストの誕生により、これを基点に、永遠という時の流れを、時間的に紀元前と紀元後に分けたものなのである。さらに世の終わりによって空間的にも分けられるであろう。いずれにしても、この年号はキリストの誕生と復活を意味し、現在なおキリストが生きていることを証明しており、しかも永遠に続くものなのである。ところでこの年号は便利だから、皆が使っているからわたしも使うのだというおかたもいるが、それは親が勝って与えた「オモチャ」(物質)に夢中になって、「ごはんですよ」(秘跡-永遠の生命)と呼んでいる親に、「母ちゃん(母たる教会)なんか死んじまえ、父ちゃん(天地の創造主)なんかあっちへ行け」と答えている、親の愛に気づかない赤子のようなものである。いつまでも赤子であってはいけない。また赤子ではいられないはずだ。

わたしたち(わたし)はキリストの御意志に従ってわたしたち(わたし)の罪をあがなわれたキリストに倣い、キリストと共に人のために尽くすことが人間(わたし)の目的なのである。くり返していう。

今や全世界は王たるキリストが支配している時代である。それだけにキリストの反対者であるサタンは、キリストの愛、キリストの平和、キリストの正義に逆らい、荒れ狂っている。わたしたちは、自分の罪の痛悔と、隣人の魂の救いのために犠牲をはらうことに、一生けんめい努力をしよう。

「幼子よ、おまえも神の預言者と呼ばれ、主の前を歩み、その道を調え、罪のゆるしによる救いをその民に知らせる。すべては、神のあわれみの心による。」(ルカ1・76-78)

追伸

著者 カトリック司祭 武宮雷吾(OFM)
1981年2月1日発行
北海道利尻郡東利尻町鴛泊字栄町
利尻カトリック教会

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