三位一体の主日(2020年6月7日、A年・祭日・白)

佐藤謙一(さとうけんいち)  

2020年6月7日

第一朗読:出エジプト記(出エジプト34・4b-6、8-9);主、主、憐れみ深く恵みに富む神
答唱詩編(ダニエル補遺・アザルヤ29、30+31、32+33);神の名はあまねく世界に輝きその栄光は天にそびえる。
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント13・11-13);イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ3・16-18);神が御子を遣わされたのは、御子によって世が救われるためである

1334年に教皇ヨハネ22世が全教会で三位一体を祝うことを決定してから、主日のミサの中で行われるようになりました。もともと行われていなかったのはミサのたびごとに三位一体の神である父と子と聖霊を記念し賛美しているからです。あえて別に祝日を作る必要性がなかったとも言えます。とはいえ、救いの歴史の中で父である神から派遣されたイエスの復活と聖霊の派遣によって完成されたあとに、特別に三位一体の神をたたえることはふさわしいといえるでしょう。

今日の福音はとても短いところです。ここはニコデモとの対話ですから3章1節から21節までの長い対話です。3回の問答を通してニコデモはイエスがどのようなお方であるかを理解していきます。これはわたしたちにも向けられたものでもあります。16節は神の愛を述べているところです。ここに書かれているとおり、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に世に与えられました。まずここに神の愛がわたしたちのために注がれているのだということが分かります。神は自分の力を誇示したいとか、宇宙を支配したいとか、自分の思い通りにしたいというような人間的な気持ちはありません。御自分の独り子をわたしたちに与えられたほどに、世を愛されたのです。「世」というのは、この世界です。この世界は今でも人間が自分のことだけを考えて、あるいは自分の所属しているグループのことだけ考えている罪の世です。自分さえよければいいという世界になっています。その世の中でイエスは、病気で苦しんでいる人や貧しい人に手を差し伸べて、自分の時をそういう人々のために使いました。逆に権力を持った人々や律法学者などに、自分のことばかり考えることを非難していました。そういう人々に対して神の力を発揮することではなく、十字架の死をあえて受け入れて、死んでいきました。その姿は惨めなものでしたが、復活という出来事によって栄光を受けました。わたしたちも同じ姿に与ることができるのです。

17節では「世を裁くためではなく、世が救われるためである」と言っています。ところが18節では、世にいる「信じる者は裁かれず、信じない者はすでに裁かれている」と言っています。御子は救うために来たが、信じない者は裁かれていると言うのです。この裁きというのは神やイエスが裁くものではありません。自分自身が自分を裁くのです。自分自身で自分を罪に定めているのです。素晴らしく美しい有名な絵があったとします。この素晴らしさを知っている人はもちろん感動します。始めて見る人でも素晴らしいものであれば感動するでしょう。もし感動しないで大したことない絵だと思う人がいたらどうでしょう。残念に思いますね。一緒にこの感動を分かち合いたいと思っていても分かち合えません。自分で自分自身を罪に定めるというのはこういうことに似ているかもしれません。

イエスのすばらしさや神の愛を知っているわたしたちは、イエスと同じように生きていきたいと思っています。イエスを見て、聞いてもこの人は偽善者だとか、十字架につけられるのに抵抗しないなんておかしいという人は、イエスと同じようには生きていかないでしょう。残念ながらその人は良い生き方を選ばないということで、罪に定められている、あるいは自分で裁いていると言えるのではないでしょうか。しかし、イエスはそういう人に対しても救われようとされていました。すでに裁かれている人をもゆるそうとされました。それをわたしたちにも求めているのだと思います。イエスの生き方は、自分自身を人々に与えていく、あるいは寄り添っていくという生き方でした。それは神がわたしたちに独り子をお与えになるほど世を愛されたことに基づきます。

追伸

(2017年6月11日江別教会での説教から抜粋)

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